おばあの語り1話〜10話

第一話 お婆でございます

私めは、新潟小学校の近くに住まいするお婆でございます。
歳でございますか。いやですよ、女性に歳など聞くものではありません。もう、100歳を超えてから、すっかり数えるのも面倒になりました。
小さいころの記憶といえば、異人さんのことでございます。ラウダさんというイギリス人の偉い領事さんが寺町通の勝楽寺に来たというので、友達とこっそり見に行ったことがございました。後から父に知れて、ひどく怒られたものでございます。
当時、異人さんは珍しく、とっても背が高く、目が奇麗だったのが印象的でございました。
異人さんの家は、大畑や東中通など、今の新潟小学校の校区に多く、明治の始めで20軒以上もございましたか。私の家の近くには、イギリスのパームさんとイタリアのミオラさんの家がございました。パームさんは、お医者様でキリスト教の宣教師でもありました。南浜通に病院を開いており、日本人のお医者様も習いにこられていました。また、ミオラさんはフランス曲馬団の一員として新潟に来たのですが、新潟に住んで肉屋を開店した人でございます。あ、そうそう、今に残るイタリア軒は、このミオラさんが開いたのでございますよ。
神戸にせよ横浜にせよ、異人さんは、居留地という場所に固まって住んでいたのでございますが、新潟の場合は、私どもと同じ町で日本人に交じって暮らしておりました。そのため、私どもは異人さんとたくさんお話をしたり、いろいろんなことを教えてもらったりしたものでございます。
新潟小学校は、こういう町につくられることになるのでございます。
それでは、新潟小学校の変わり様について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。(つづく)

第二話 「私立第三小区学校」と名づけられたのでございます

今日は、新潟校の始まりのお話をいたしましょうか。
新潟の町が開港場になったため、明治の御代の変わり様は急でございました。そうはいっても、親戚から聞くと、殿様がおられた新発田や長岡、高田の方が殊更であったといいます。
政治向きのことも、藩をやめて県にするなど、激しく変わりました。後で父が教えてくれたことですが、県はさらにおおよそ1万戸をまとまりにして大区に分けられ、大区はさらにいくつかの小区に分けられたのでございます。新潟町は県内一番の区として、「第一大区」となり、五つの小区に分けられたそうでございます。そして、小区ごとに小学校を一つ開校することが決められました。祖父は、「地名を数字に変えてしまうなんて、新政府も不粋なことをしたものだ」と申しておりました。
祖父でございますか。祖父は、康太郎と申しまして、生粋の新潟商人にございます。着物の柄などにも気を遣う粋な方でございました。家は、代々小さいながら羽州屋という表店(おもてだな)を営んでおりました。後で聞いたことですが、維新のあと、なんでも無尽(むじん)の失敗で家が傾き、祖父もうつうつと日を暮らしていたころであったようでございます。
それはそうと、明治6年3月2日、西堀通十番町の真宗寺に学校が仮開学いたしました。おめでたいことでございます。新潟小学校の誕生でございますよ。真宗寺は加賀国から出羽国を経て、太閤様の御代に新潟に来た由緒あるお寺様と聞いております。
場所が第三小区であったため、「私立第三小区学校」と名づけられたのでございます。「私立」となっているのは、あくまでも仮開学であり、文部省からまだ認可されていないという理由からであったようでございます。同じ年の7月には、校名の後に「発拡塾」が付いて、「私立第三番小学発拡塾」と呼ばれます。
明治8年に正式に認可がおり、御上の学校ということで、「公立第三番小学四番堀校」という名前に変わりました。祖父と近所の皆様が、学校の名前はどうしてこうころころ変わるのかと、よく話していたものでございます。
創られた学校には、様々なことがございました。その有り様でございますか。
それでは、当時の新潟校の有り様について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。(つづく)

第三話 明治6年の生徒は152人でございます

それでは、明治6年の学校の有り様についてお話いたしましょうか。
新潟校の前身である私立第三小区学校は、西堀通十番町にある真宗寺の本堂に間借りしておりました。
先生方は5名で、一番年かさは51歳、一番お若かったのは16歳でございました。出身地は本町通、古町通、東堀通など、皆さん町内の人でございました。なお、多くの先生方が、かつて寺子屋のお師匠様をしていた方でございます。北村静山様という、当時珍しい女子(おなご)先生もおられました。
明治6年の生徒は152人でございます。10歳くらいの男の子ばかりだったと覚えております。
その時、お婆は六つでございました。いつも、弟を背中におぶっておりました。
そんな訳で、お婆は弟をおぶって学校の周りを歩くのが好きでございました。
お婆の名前でございますか。「吉(きち)」と申します。よく、みなさんからは、「お吉」と呼ばれておりました。
外から見ておりましても、学校のことはある程度分かります。明治6年は、3月2日が学校の始まりでございました。今でも、新潟小学校は、この日を創立記念日にしているとか。もっとも、次の年からは始業式は1月11日、終業式は12月20日と決められておりました。ですから、桜の下の入学式もなく、もちろん、1学期、2学期などの学期も、夏休みや土曜、日曜の休みも無かったのでございます。休みといえば、12月21日から翌1月10日までの21日間と毎月の16日で、1年間で33日間しかなかったのでございます。今の小学校の休みが160日間位と聞いておりますから、昔の生徒さんは、それはそれはたくさん学校に来ていたことになります。
それはそうと、このころ急に髪型についてのお触れがでたのでございます。。
それでは、髪型の変わり様について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。

さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。(つづく)

第四話 ざんぎり頭はヘナチョコ顔でございます

今日は、新潟の人々の髪型についてお話いたしましょうか。
本当に世の中が変わったと思いましたのは、ざんぎり頭のお触れが出されたときでございます。これは、初代の県令、今でいう県知事の楠本正隆様がお出しになったもので、男は全員ちょんまげを切って、ざんぎり頭にせよというものでございます。もちろん、新潟校の男の先生方はすべてまげを落とし、ざんぎり頭でございました。男の生徒さんにもまげの者はおりませんでした。
私の祖父は根っからの新潟商人で、昔気質の人でございましたから、お役人に言われても、「まげのある人はシャンとして見映えがよいが、ざんぎり頭はヘナチョコ顔でございます」と申して、なかなかまげを落としませんでした。祖父の友達で、古町通で椀を商っておりました者も、まげを切るのがいやで、まげをしたまま、かつらをかぶっていたようでございます。こんなふうでありましたので、ざんぎり頭はなかなか広まらなかったのでございます。
業を煮やした楠本県令様は、ら卒、今でいう巡査様でございますが、それに命じて、まげの者を交番へ連れてきて、そこでまげをきったのでございます。そんなことを聞いてから数日たった朝、祖父の頭がざんぎりになっていたのを憶えております。なんでも、まげを落とす前に、写真館に行って、ちょんまげ姿の写真を撮ってきたと申します。その写真をもとに、大きな絵を描かせ、仏間に飾っておいたものでございます。

新潟県民の男の方々すべてが、ざんぎり頭になったのは、お触れをだしてから3年後の明治8年でございました。
祖父は、このように暮らしぶりの大きな変化を快く思っていなかったようでした。しかし、父親は「文明開化」という言葉をよく口にしていて、真っ先にざんぎり頭にするなど率先して明治の流れに乗ろうとしていたようでございます。ただ、父のざんぎり頭は、あまり似合っていないようにお婆には見えたものでございます。
まげ一つとってもこれだけの変わり様があり、街の様子も変わってまいりました。
それでは、街の変わり様について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第五話 道路の両側に石油の街灯を灯したのでございます

今日は、新潟の街の変わり様について、お話をいたしましょうか。
新しい街の槌音は、開港場の運上所建設から始まりました。今の「みなとピア」の旧税関でございます。入口のアーチや望楼は、当時の人々の驚きの的でございました。さらに、この周りを開拓して、新しい街も作られました。早川町、本間町、船見町、入船町などでございます。
また、楠本県令様は、礎町通の辺りを高級住宅街にして、新潟の街のモデルハウスにしようと考えておられたようでございます。その証拠に、この辺りに建てる家は、土蔵造りか瓦葺きにしなければならず、さらに雁木の幅や下水道のふたの幅まで細かく決めたのでございます。こういった家が、明治6年ころから、方々に出来てまいりました。反対に、かやぶきの家は、取りこわさなければならなかったのでございます。
県令様は道のでこぼこを平らにし、下水溝を作り、所々に防火桶を埋め込んだりもいたしました。そして、道路の両側に石油の街灯を灯したのでございます。なんでも、スコットランドの酒の蒸留場の屋根の形によく似ていると言われておりました。それはそれは明るく、お婆もよくその灯りを見ていたものでございます。
楠本県令様は、このほかにも、街の通りにあったゴミ捨て場を取り除かせたり、朝夕軒下を掃除させたりして、街中をきれいにされました。また、古町や本町などの店の前にあった小便所を取り壊して裏に移したり、道路で小便をすることや裸で道路を歩くことを禁止したりしたのでございます。堀をきれいにするため、新しい水を取り入れたり、堀にゴミを投げ入れるのを禁止したのも県令様でございました。県令様は、新潟を外国人が来ても恥ずかしくない、りっぱな開港場にしようとしたのでございます。
それはそうと、現在の新潟小学校のもう一つの大切な柱であります大畑校もこのころにできたのでございます。
それでは、大畑校について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第六話 私立第二小区学校、後の大畑校でございます

新潟が五つの小区に分けられ、五つの小学校を創るように新政府から申しつけられたことは、お話したとおりでございます。実はこれが大層なことでございました。当時の区長の石附五作様は、「これから小学校というものを設けよと御上からの御沙汰であるが、いかにいたそう。」と周囲にもらしていたそうでございます。
建物や道具、教科書や教師など面倒なことを手当てせねばならぬわけでございますから、「いかにいたそう」というお気持ちは、もっともでございます。
さて、現在の新潟小学校のもう一つの柱である私立第二小区学校、後の大畑校でございます。これが、創立いたしましたのも、新潟校と同じ明治6年3月2日でございます。重ね重ねおめでたいことでございます。場所は、西堀通六番町の光林寺というお寺様でございます。光林寺様は会津若松に加藤清正のご家来が建てた寺と伝えられ、新潟へ来たのは慶長12年とお聞きしております。明治6年7月には私立第二小区学校啓蒙館となり、翌7年「公立第二番小学西堀校」となるのでございます。
一番偉い首座教員は、句読師の安藤平二郎先生で、歳は66歳でした。先生方は、ほかに5人おりましたが、一番若い先生は、なんと14歳でした。生徒さんは、学校が始まった明治6年には、186人ほどいたようでございます。
明治9年になると、校舎が西堀通7番町の本覚寺様に移り、13年まで本堂で授業を受けたのでございます。
そうそう、今の小学校と違うところは、入学金と月謝を御上に納めなければならなかったことでございます。入学金は一人25銭、月謝12銭5厘でございました。このお金が馬鹿にならなかったのでございます。
このほかに、後に鏡淵校となる第1小区学校、洲崎校となる第4小区学校、豊照校となる第5小区学校が作られ、大畑校となる第2小区学校と新潟校となる第3小区学校と合せて、五つの小学校ができたのでございます。
ようやく小学校を創り終えたのでございますから、石附区長様も胸をなでおろされたと聞いております。
ところで、これら五つの学校の名前に地名が付いた由来はご存じでしたか。
それでは、五つの学校の名前について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第七話 三校とも、西堀校を名乗りたいというお考えをもっていたようでございます

今日は、五つの学校の校名についてお話をいたしましょうか。
 明治6年には、第何小区学校というように、学校名に数字がついておりましたが、明治7年に県からのお達しで、五つの学校の名前に、地名をつけることになったのでございます。
 ところが、第一小区学校、第二小区学校、第三小区学校は、それぞれ西堀通のお寺様を借りておりましたので、三校とも、西堀校を名乗りたいというお考えをもっていたのでございます。話し合いをもったということでございますが、結局、西堀校を名乗ったのは、第二小区学校、後の大畑校でございました。
 第一小区学校は、昔近くに鏡が淵と呼ばれた沼地があったので、鏡淵校ということに決まりました。
 第三小区学校、今の新潟校は、西堀・東堀を切り通している四番堀の起点に近かったので、四番堀校という校名にしたのでございます。
 第四小区学校は、当時、西堀・東堀の13番町から北のあたりを洲崎と呼び慣わしておりましたので、洲崎校となりました。
 難しかったのは、第五小区学校、今の豊照校でございますよ。学校があった場所は見方町と呼んでおりました。これは、見方勘三郎様が開墾した土地であったので、その人の名前を町名にしたのでございます。地名を学校名にするのであれば、見方校ということになりますが、見方様という人の名前を学校名にするのは如何なものかという意見もありました。結局、隣町の豊照町の名前をとって豊照校となったのでございます。なんでも、豊照というのが、大層おめでたい名前であったからのようでございます。なお、この豊照という名前は、このあたりを開墾した本間鉄太郎様がご自分の屋敷に祭っておられた豊照稲荷神社からとったお名前と伺っております。
 その話を聞いた祖父が、「神社の名前が学校の名前になるのは、いいことだ。」と変に感心して祖母に話しかけておりましたが、祖母の郁は、ただただ笑っているばかりでございました。
 それはそうと、五つのが学校ができたころ、寄居に軍隊が置かれたのはご存じでしたか。
 それでは、軍隊の様子について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
 お付き合いいただければの話でございますが。
 さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
 今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第八話 新潟営所でございます

新潟校ができる1年前に、新潟に軍隊ができたのでございます。新潟営所でございます。
 新政府は、東京、仙台、大阪、名古屋、熊本、広島に「鎮台」という大きな軍隊をおきました。この時、東京鎮台の第一分営が新潟営所だったと申します。今に残る営所通の名前も、ここからきたものでございます。
 この新潟営所が、現在の寄居中学校の辺りにございました。広さ1万400坪の中に八つの兵舎が建てられました。そばに、広い練兵場もございました。兵隊さんとして、新発田、米沢、鶴岡、富山からお侍さんたちが移ってきたと聞かされておりました。
 後で、営所の兵隊さんに伺った話ですが、営所に入ると、兵服や靴、毛布が支給され、すっかりフランスの兵隊さんのような格好になったといいます。お婆がうらやましく思ったのは、営所の食事でありますよ。鮭や鱒、鴨といった魚・鳥などぜいたくな食事で、量も多かったと兵隊さんが教えてくれました。
 そういえば、後年、父親が次のように話していたのを覚えております。
 「新政府が置いた鎮台の場所と、高等学校の場所のことを、君はどう考えるね。」
 そうです。父は私のことを、名前で呼ばず、君と呼ぶのです。父は続けました。
 「鎮台は、東京、仙台、大阪、名古屋、熊本、広島だ。高等学校は、東京、仙台、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、名古屋だ。何か、気がつかないか。」
 少しの違いはあるものの、場所がよく似ているのでございます。
 父は私に諭すように言いました。
 「新政府にとって、軍事と教育は特に大切な柱なのだ。その柱を立てる場所が新生日本の地方の枢軸になる。しかし、新潟の名前はない。それが、問題なのだよ。」
 お婆には難しい話でよく分かりませんでしたが、あの時の父親の目は覚えております。
 父は雅之介と申します。元村松藩のお侍で、この羽州屋の婿になったのでございます。
 なぜ村松藩のお侍が新潟町の商家の婿になったかでございますか。
 内々の話ではございますが、とりとめのないお話をいたしましょうか。
 お付き合いいただければの話でございますが。
 さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
 今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第九話 新潟は、そういう自由闊達な雰囲気にあふれた町でございました

今日は、私の父が婿に入った話をいたしましょうか。
 私の家は徳川様のころから、お茶を商っておりました。新潟で羽州屋といえば、少しは聞こえた茶商人で、京都宇治のお茶から、村上、村松・五泉・新津など地回りのお茶まで手広く扱っておりました。ただ、祖父の康太郎と祖母の郁には男の子がなく、娘に婿をとって跡を継がせることにしておりました。そんなとき、昔から出入りの村松で茶をつくる伝兵衛という者の仲立ちで、村松藩のお侍様の次男に当たる父との縁組が決まったのでございます。
 父の雅之介は、傾いた家業を立て直すことが、自分の仕事と心得ておりました。祖父の康太郎が御維新の大きな変化の中で、すっかり自信を失っていたからでございます。このころ父は、村松の士族のみなさんとお茶を外国へ売りさばく計画を立てておりました。そのために、、つてをたどって新潟に住まいするイギリス人の領事さんに相談し、紅茶というものを教えていただいたのでございます。そして、その紹介で、紅茶やウーロン茶の製法を得ようと、横浜まで出向いたのでございました。
 新潟は、そういう自由闊達な雰囲気にあふれた町でございました。それと申しますのも、町の者が異人さんにさまざまなことを習い、反対に異人さんに日本のことを教えていたかからでございます。町には、イギリス、アメリカ、ドイツなどの領事館が置かれておりました。領事さんのほとんどは商人でありましたし、商家を借りて仕事をしておられました。そして、思い思いに改造して住んでおり、障子戸にはガラスをはめ、天井には壁紙を貼っておりましたし、家具もわざわざ祖国から取り寄せたのでございます。また、異人さんの家には、日本人が雇われていて、そんな方々から異人さんの暮らしぶりを聞いたり、異国の本を見せてもらったりするのも、お婆の楽しみの一つでございました。
 本と言えば、このころもう新潟校には教科書があったのでございますよ。
 それでは、教科書について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
 お付き合いいただければの話でございますが。
 さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
 今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第十話  明治6年に教科書があったのでございます

今日は、教科書の話をいたしましょうか。
 実は、新潟校や大畑校が始まった明治6年に教科書があったのでございます。
 お婆が一番よく覚えておりますのは、「単語編(ことば)」という書物でございます。
 これは、今でいう国語で、言葉の読み方や字を覚えるためのものだったようでございます。
 一番初めと次のページには、大きなひらがなの字で、「いろはにほへと」から、「あさきゆめみしえひもせす」まで書いてございました。次には、「アイウエオカキクケコ……」というようにカタカナで書いてございました。これを、みんなで読んでいるのを、お婆も窓の外で聞いて、すっかり覚えてしまったものでございます。
 それから、天子様のお名前も書かれておりました。これは、「神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)…」。難しゅうて、お婆には、なかなか覚えられませんでした。
 「窮理問答」という教科書もございました。これは、弟子が先生に質問し、先生がそれに答える形で書かれておりました。たとえば、弟子が「空気とはどのようなものでございますか。」と質問すると、先生が「地球を包んでいる弾く力のある気体でござる。」と答える様子が書かれておりました。書いてあることは、さっぱり分かりませんでしたが、「なになにでござる」と生徒のみなさんが一緒に大声で唱えるところが、とても好きでございました。
 地理では、父親が尊敬していた福沢諭吉様の手になる「世界国尽(せかいくにづくし)」という教科書がございました。これは、「世界は広し万国は多しといえど、おおよそ五つに分けし、名目は亜細亜(あじあ)、阿弗利加(あふりか)」で始まる文章で、漢字にはていねいにふりがなが振ってございました。弟の信作はこの「世界国尽」を生徒さんが唱え始めると、お婆の背中で、すぐに寝息をたてたものでございます。
 ほかにも、たくさんの教科書があったものでございますが、生徒さんは、それを大切にして、折り目などがつくと、ていねいにのばしていたものでございます。
 実は、このころ学問に励んでいたのは生徒ばかりではありませんでした。
 それでは、人一倍学問に励んでいた新潟校の先生方のとりとめのないお話をいたしましょうか。
 お付き合いいただければの話でございますが。
 さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
 今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)