おばあの語り34話〜44話

第三十四話 礎校の誕生でございます


  小学校令の改正により義務教育が4か年と決められたので、それまで学校へ行かなくともよかった子供が、必ず小学校へ上がらなければならなくなりました。その結果、学校が足りなくなり、新しい小学校を作らなければならなくなったのでございます。
  明治34年のことでございました。大畑校の訓導の片山三男三様が、礎尋常小学校開校準備の担当に任命されました。片山様は、すぐさま予算編成と職員組織の準備にとりかかったのでございます。そのかいあって、4月12日には、小学校の認可がおり、片山様がそのまま校長として任命され、そのほかに10人の方々が教職員として着任されたのでございます。
  生徒さんの数は、689人でございました。ただ、校舎がまだ建っておりませんので、生徒さんは豊照校、鏡淵校、湊校などに分れて勉強をしたのでございます。結局、校舎ができたのは7月20日のことでございました。場所は礎通三之町の旧新潟商業学校の跡地でございます。まったくの新築ではなく、昔の西堀尋常小学校、大畑校でございますが、その校舎の古材を使用したのでございます。
  校舎はできたものの、礎校の生徒さんは、その校舎にすぐに入ることはできませんでした。それと申しますのも、豊照校が改築工事を始めるため、完成した礎校の校舎をそっくり、豊照校に貸したのでございます。そのため、せっかくできた礎校の校舎には、礎校の生徒さんではなく豊照校の生徒さんが入ったのでございます。
  礎校の生徒さんはといえば、依然として、鏡淵校など、多くの学校に間借りしたままの授業でございましたので、半日授業でございました。なんと、始業は午前7時、終業は正午でございました。さすがに、秋になると日が短くなったので、始業は午前9時になったようでございます。
  結局、生徒さんが礎校の本校舎で授業を開始したのは、明治35年4月28日のことでございました。この年の礎校の新入生は、4月いっぱい自宅待機となり、1年生としての授業が始まったのは5月1日でございました。
  このころ、私の実家の羽州屋に不祝儀がございました。私の祖父の康太郎が亡くなったのでございます。当時、羽州屋を婿の雅之介に譲っておりましたが、85の大往生でございました。葬儀の行列が西堀のお寺様まで続いておりました。同じころ、お婆に二人目の子供が授かったのでございます。長男の徹人でございます。目もとが、祖父にそっくりでございましたよ。
  ちょうど、祖父が亡くなったころであったように思いますが、新潟校に水泳科ができたのでございます。
  それでは、水泳科の話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第三十五話 新潟高等小学校に水泳科ができたのでございます


  明治32年、新潟高等小学校に水泳科が作られたのでございます。水泳を教えるために、わざわざ東京から村山正臣様という水泳の先生を2か月間お願いいたしました。村山様は、鳥羽伏見の戦いにも出陣された方で、東京帝国大学や海軍機関学校で水泳の先生をしておられました。なんでも、いたく責任感の強い方で、水泳で生徒が亡くなるようなことがあれば、切腹の覚悟をしておられたと聞いております。
  このころの新潟は、土用の丑の日に縁起をかついで海で泳ぐほかは、川で泳ぐのが普通でございました。初めての水泳授業も、一番掘で行われたのでございます。白山神社の鳥居と古町の間の、一番堀通りと呼ばれて、今は道路となっている場所でございます。堀の両脇に紅白幕を張り、たくさんの来賓の方が集まり、それはそれははなやかでございました。神伝派自然流水術の村山先生の模範水泳には、多くの方々が感心したものでございます。当時、高等小学校には600人ほどの生徒がおりましたが、478人が水泳科を希望したと申します。生徒さんは、白木綿の水褌を身につけ、1級は白、2級は黒から、5級の赤まで、色の違った布を左腕に巻いたのでございます。
  このあと、毎年水泳科の授業が続けれたのでございますが、このとき水泳場をどこにするかが問題になったのでございます。新しく校長になった加藤校長先生が、「大海を控えた新潟で水泳をするのは、海だ。一番堀あたりでうようよするようでは、第一士気にかかわる」と寄居浜で行うことを主張し、反対を押し切ったと申します。
  現在の新潟小学校の先生方は、男先生でも女子先生でも、もちろん泳げますが、信じられないことに、このころきちんと泳げたのは、東京から招かれた村山先生ただ一人であったといいます。
  村山先生は、真の泳ぎ、行の泳ぎ、草の泳ぎの三つを教えられました。真の泳ぎは、今の横泳ぎでございます。行の泳ぎは、顔を正面に向け、手を左右対称に手を動かす泳ぎ方でございました。草の泳ぎはと申しますと、今の平泳ぎのようなものでございました。
  村山先生は、日露戦争のため水泳が休止になっても、東京から手弁当で新潟へ来られ、有志に水泳を教え続けたと申します。
  今でも、寄居浜に立っております記念碑は、先生の遺徳をたたえたものでございます。
  そんな年の夏、お婆に、また男の子が生まれました。二男の貫二でございます。何とも落ち着きのない子でございましたが、父の雅之介が、ばかなかわいがりようでござしました。
  そういえばこのころ、新潟校にとって大切な方が新潟へ来られました。東郷平八郎様でございます。それでは、東郷様の話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第三十六話 東郷平八郎様が来校されたのでございます


  今日は、東郷平八郎様のことについてお話しいたしましょうか。
  明治39年7月のことでございます。東伏見宮殿下が片岡中将を連れて、帝国海軍第一艦隊ので新潟港にお出でになりました。それをお迎えするため、東郷平八郎大将が新潟に来られたのでございます。東郷様と申せば、この1年前、日露戦争の日本海海戦において、ロシアのバルチック艦隊を破ったことは有名でございました。全艦隊に対して、、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞したと聞いております。この時のことを、父は興奮して、「丁字作戦を行った東郷はずごいではないか。」と声高に言っておりました。丁字作戦とは、後に「トーゴー・ターン」と呼ばれた思い切った作戦なのだそうでございます。
  東郷様は、東伏見宮殿下をお見送りした後、八木市長様と共に新潟校にお出でになりました。お婆は、新潟校の玄関で人力車から降りられた東郷様を覚えておりますが、大層おひげの立派な軍人様でございました。即刻、生徒が運動場に集められ、東郷様の訓話が行われました。7〜8分のお話でございましたが、みな背筋をぴんと伸ばして聴いておりました。
  訓話が終わられてから、校長室で八木市長様が東郷様に、新潟小学校の校旗の文字にするため、揮ごうをお願いいたしました。汽車の時間が迫っておりましたので、東京のご自宅でお書きになり、後から市長様を通じて、新潟校に届けられたのでございました。
  その校旗は、中央に「新潟」と大きく漢字で書かれ、三方を紫と赤で縁取ったりっぱなものでございました。これが、なんと平成元年の大畑校との統合まで、80年間にわたって、卒業式などで使われてきたのでございます。
  東郷様がここまでなさるのは珍しいことでございます。新潟に大層思いいれがあったのでございましょう。祖父のお友達の貫太郎さんから聞いたのでございますが、なんでも東郷様は、戊辰戦争のおり、官軍の一員として柏崎から船に乗り、太郎代浜に上陸し、新潟を占領していた会津藩と戦ったのだそうでございます。当時、新潟の町の人は会津藩を嫌っておりました。そんなおり、東郷様の官軍が会津藩を攻め落としたのでございます。東郷様は、そのあと、函館の五稜郭へ行き、そこで土方歳三らとも戦ったと申します。
  そんな東郷様から書いていただた校旗を見て、新潟の町の人々は皆、喜んだのでございます。
  このとき、一般市民による第一艦隊の見学が行われたのでございます。
  それでは、そのそのときの話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第三十七話 東郷平八郎様は神様ではなかったのでございます


  今日は、第一艦隊見学の話をいたしましょうか。
  東郷海軍大将が新潟を訪れたおり、多くの市民が新潟港に停泊する第一艦隊を見学したのでございます。第一艦隊は、旗艦・出雲をはじめ、八雲、磐手、浅間、日進、春日の六隻でございました。
  さりながら、新潟港は未だ浅かったため、岸壁に接岸することができず、見学者は、艀(はじけ)に乗り、沖合に停泊している軍艦まで参りました。市内の小学生もまた、見学を許され、一般市民とは別に優先的に見学することができたのでございます。初めに、十隻の艀(はしけ)に4000人が乗り、次の艀に3000人が乗ったと申します。
  その中に、大畑校の生徒さんがおりました。ちょうど、学校では、日露戦争の勉強をしており、旅順港での広瀬中佐のお働きや二百三高地での乃木将軍のお働きなどを聞かされておりました。さらに、日本海海戦の勉強が一番熱を帯び、担任の先生から、東郷大将の忠烈無双の働きを聞かされていたのでございます。
  そのためか、その生徒さんは、東郷大将を神さまだと思っていたのでございます。そんなとき、第一艦隊を見学し、東郷大将の御姿を見たのでございました。そのお姿は、人間のようにしか見えないのでございます。そして、実際に人間であることを知り、生徒さんは大層驚いたのでございます。
  そこで、この生徒さんは、はがきに次のように書いて、東郷大将に送ったのでございます。 「私ハアナタヲ、神サマダト思ッテオリマシタレバ、人間デアリマシタ。日本ノ海ハ人間デマモルノデアリマスカ。」
  東郷平八郎大将は、そのはがきに「在精神」、「勉励
  平八郎」とお書きになり、それをていねいに封筒に入れて、その生徒さんのところに送り返してくれたのでございます。大切なのは、人の精神であり、それを鍛えるため、勉強に励むようにという教えでございます。「勉励」という字を送れらた生徒は、一層勉強に取り組んだと申します。
  お婆は戦争は、嫌いでございました。このころ、幼馴染の平七さんが戦死したという報せが入りました。明治37年に旅順で亡くなったとのことでございますが、2年後、東郷大将が新潟へ来られるのと、その報せが一緒だったというのも、何かの縁でございましょうか。
  私どもの町内でも、第一艦隊を見に行った者が多くおりました。黒々と煙突から立ち上る煙を見て、胸を熱くして帰ってまいったのでございます。
  黒々とした煙と申せば、このころ新潟は、火事が多かったのでございます。そして、新潟校もその火事にあうのでございます。
  それでは、新潟校・西堀校・礎校を焼いた火事の話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第三十八話 学校が焼けたのでございます


  今日は、三つの学校が火事にあった話をいたしましょうか。
  明治41年の3月8日のことでございました。古町通8番町から出た火が東堀、本町、上大川前、月町、花町、礎町などを焼き、礎小学校が全焼してしまったのでございます。商工会議所や銀行のほか、万代橋まで焼けるという有様でございました。
  生徒さんは西堀校と鏡淵校にお邪魔して勉強いたしました。
  この明治41年は、燕や六日町、直江津、新津でも大きな火事が起きた年でございましたが、新潟はなんと、6か月後の9月4日にも、大火があったのでございます。
  この日は、とても天気のいい日で、新潟では水泳大会をしておりました。その晩、だしの風が吹き、気温も上がっておりました。古町四番町から火が出て、西堀、東堀、寺裏、南浜通、旭町、寄居、大畑と延焼し、37の町内を焼いたのでございます。営所通りなどは、わずか15分で全部焼き尽くしたのでございます。この火事で、新潟校と西堀校が全焼してしまいました。そのほかにも、県庁、市役所、警察署、郵便局などの役所のほか、師範学校、附属小学校も焼けてしまいました。
  新潟校では、火事の知らせを受け、加藤校長先生と瀬賀先生など3、4人の先生方が駆けつけ、ようやく重要な書類だけ運びだし、加藤校長先生のお宅へ運びこんだと申します。次の日、さっそく職員会議が開かれましたが、なんとその場所は、近くの神社の拝殿であったといいます。生徒さんたちは、類焼をまぬがれた豊照校や湊校へお世話になることになりました。
  西堀校でも、多少の物は運び出したのですが、水をかぶってしまい、結局使えるものは、台ばかり1台だけという有様でございました。
  新潟校(新潟高等小学校)、西堀校、礎校の三つの学校が灰となったのでございます。早速、校舎の復旧がおこなわれたのでございますが、礎校はこれまでの場所を拡張して校舎を建てることになりました。西堀校は新潟校の場所に引っ越して、新潟校と統合にして「新潟尋常高等小学校」という名前に変えることになりました。火事で西堀校が、本当に消えてしまったのでございます。
  そんな大変なときも、子供たちは元気に遊びに興じておりました。
  それでは、そこのころの子供たちの遊びの話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第三十九話 明治の子供の遊びでございます


  今日は、明治のころの子供たちの遊びについてお話いたしましょうか。今の子供たちとは違い、そのころの子供たちは外で遊ぶのが大層好きでございました。お婆も友達とよく浜へ遊びにいったものでございます。浜といいましても、今のように海がこんなに近くはありませんでした。もっと、ずうと向こうまで砂浜が広がっておりました。波打ち際に着くと、そこで家だのお城だの池だのを思い思いに砂でつくったものでございます。そのうちに、誰言うともなく、それぞれが作ったものをつなげようということになります。そして、落ちていた貝殻などを貼り付けて飾っていくのでございます。
  また、疲れてきますと、みんなで砂丘の内側へ引き上げます。そこには、カヤが生い茂っておりました。そこで、休むのでございます。ここには、とてもおいしいものがあります。カヤの根でございますよ。子供たちは、それを掘り起こします。根は真白でございました。その根をかむと、それはそれは甘い汁が出てまいります。一つをかじり終わると、もう一つ探します。そのときに歌ったうたが、次のような歌詞でございました。


  藤五郎様<  藤五郎様
  あまーいあまじっこ   ぐんと出しておくーれおくれ


  藤五郎様とは砂の中に住む黄金虫などの幼虫でございます。
  子供たちは、あまじっこをかじるのにあきると、今度は、ぐみ原に入り、赤く熟したぐみの実を食べるのでございました。たいていは、家路に着くころ、ぐみの実の赤さほどの夕焼けが、日本海の空をおおっておりました。
  法と徹人は小学校生になっており、浜へ行って遊ぶのが好きでございましたが、貫二はいつも、おいてきぼりにされていたようでございます。
  子供の楽しみといえば、このころに学校でクラブ活動が始まりました。
  それでは、そこのころの子供たちのクラグの話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十話 明治時代のクラブ活動でございます

今日は、明治の御代の新潟校のクラブ活動のお話をいたしましょうか。
  新潟校は高等科がありましたので、明治43年に撃剣、柔道、野球、庭球の四つのクラブが作られたのでございます。撃剣部は、木刀や竹刀で剣術の稽古や試合をするのでございます。
  柔道は昔、柔術と申しておりましたが、明治15年に嘉納治五郎先生が講道館をおつくりになり、柔道と改めたと聞いております。
  野球は、明治4年に米国人が日本に持ち込んだものでございますが、「ベースボール」を、初めて「野球」と日本語に訳したのは、昔の新潟中学、今の新潟高校の校長を務めた中馬庚という方でございます。
  庭球は、そのころローンテニスと呼ばれておりました。
  このように、明治になってそれまでと中身が変わった運動や、西洋から入ってきた運動をいち早く学校のクラブにとりいれたのでございます。それぞれのクラブには先生が一人お付きになり、生徒さんたちは二つまで入部することができたのでございます。特に柔道は、今の中央警察署のところに武徳殿という建物が立っており、そこで練習をしたものでございます。
  とにかく生徒さんたちはクラブが好きでございました。遅くまで、生徒さんたちの声が学校に響いていたものでございます。
  私どもの料亭川善は、日露戦争後、何かと県庁へお見えになる新発田や村松の連隊の将校様がお寄りになっておりました。夫の治助が、ものに凝る人であったので、東京やら京都やらの珍しい料理を研究し、新潟では評判をとっておりました。川善にとって、よい時代でございました。
  珍しいといえば、このころに、新潟校に珍しいものがつくられたり、展示されたりしたものでございました。それでは、新潟校の珍しいもののお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十一話 珍しいものづくしでございました


  今日は、明治の終わりころ、新潟校につくられたり、展示されたりした珍しいもののお話をいたしましょうか。
  このころ、学校に運動用具が整えられたのでございます。屋外体操場、今のグラウンドでございましょうか。そこに、初めて鉄棒と遊動円木が据え付けられたのでございます。子どもたちは、大層喜んで、行列をつくって、遊んだのでございますよ。
  また、授業でない時間には一般の大人の皆様にも開放されました。大勢の大人が珍しそうに鉄棒につかまったり、遊動円木に乗って遊んだのでございます。
  運動用具のほかに、裁縫機械、今のミシンのことでございますが、それを一台購入して、女の生徒さんに使い方を教えたのでございます。手で縫うことしか知らない者ばかりでしたので、縫う速さは大変なものでございました。初めのうちは、裁縫機械と優秀な生徒さんが縫う競争をしたのですか、そこは機械のこと、全く勝負にならなかったと申します。
  また、このころは、新潟校に珍しいものを寄付される方々が多くいなさいました。二宮尊徳の幼い頃を描いた額というものもございました。大層利発そうなお顔でございました。ナポレオン像の額を寄付された方もおられました。こちらの方は、目が大きいお顔でございましたよ。そのほか、ダチョウの卵や水牛の頭の骨を寄付された方もおられました。なかなか見ることのできない珍しいものは皆新潟校に持っていって、生徒さんに見てもらおうというお気持ちの方々が大勢いらっしゃったのでございましょう。
  しかし、珍しいものが新潟校にあるという噂が広まると、大人がたくさん学校を訪れました。お婆も、久々に実家に帰り、父の雅之介をつれて新潟校まで、見にいったものでございます。、
  新潟校へ行けば珍しいものが見れる。まるで博物館のようでございました。
  さて、博物館のような新潟校でございましたが、海岸の砂が飛んで校舎に積ることがございました。そこで、砂山に松林を植えようという話になりました。今新潟の砂丘を守っている松林ででございますよ。その生い立ちをご存じでしたか。
  それでは、新潟浜の松林の話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十二話 寄居浜は新潟校の学校林だったのでございます


  今日は新潟浜の松の木のことについてお話いたしましょうか。
  新潟町の歴史は海から寄せる風と砂との戦いの歴史でもございました。西堀の真宗寺、実は新潟校の始めはこのお寺様の中に学校が作られたのでございますが、そのお寺が江戸時代の中ごろには砂で埋まってしまうほどだったのでございます。それで、新潟町奉行の川村様などが松をお植えになったのでございます。
  明治になりましても、被害は続いておりました。そこで、学校の生徒が浜に松を植え、そこを学校林にするよう県知事様が音頭をとられたのでございます。
  新潟校では、明治43年から松の植樹が始まりました。4月に4600本の松を、尋常科1年生から高等科2年生までの1500人の生徒さんたちが寄居浜に植えられたのでございます。
  もちろん、ほかの学校でも植樹が行われました。岡本小路の前の浜は鏡淵校が受け持ち、北に向かって新潟校、さらに大畑校、そして礎校、湊校、最後が豊照校の順番で、持ち場が決められておりました。
  しかし、その年の10月10日には、新潟校の持ち場の寄居浜では、半分くらいの松が枯れていたともうします。なかなか難しい仕事であったようでございます。
  次の年は、新潟小学校の生徒さんが、黒松2500本を浜浦校近くに植えるなど、場所を変え、毎年毎年、松は植え続けられていったのでございます。
  そんなわけで、長い海岸線の浜には、小学生の植えた松がすくすくと育っていったのでございます。しかし、残念なことに、当時の生徒さんが植えた松林が今でも見られるのは、附属新潟小・中学校の裏の寄居浜の松林やドン山近くの二葉浜の松林、そして、水道町の裏の松林だけでございます。そのほかの松は、なんでも、太平洋戦争のころ燃やすものがなくて、松の木を切って焚きつけにしたのでございますよ。もったいないことでございます。
  ただ、新潟校の生徒さんたちが植えた松は、今でも寄居浜、二葉浜で、新潟の町を風と砂から守っているのでございます。ありがたいことでございますよ。
  私の子供たちも皆、学校へあがっておりました。長男の徹人は料亭の板前修行もあり、高等科卒業後から京都へやりました。二男の貫二は器用な子供で、人を笑わせたりするのが好きな、ひょうきんな子供でした。勉強は嫌いでしたが、何とか高等科まではあげたのでございます。長女の法は、高等科へ上げたのでございますが、その後、本人の希望もあり、高等女学校へ上げたのでございます。私が、小学校へあがれなかったこともあり、法にはきちんとしたかったのでございます。
  あそうそう、そういえば、このころ県立の図書館が新潟校の中に作られたのをご存知ですか。
  それでは、新潟図書縦覧所のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十三話 新潟小学校の中に市民の図書館が作られたのでございます


  今日は、新潟の図書館の始まりのお話をいたしましょうか。
  明治35年,新潟市に私立の図書館が開館しました。新潟図書館でございます。佐藤荘松という方が旭町通一番町の南山で、個人の力で集めた17000冊の図書を新潟市民のために、公開したのでございます。何せ、本などというものは、大層高価なもので、物持ちの旦那衆や官員様などが買って読むものとされておりました。学校の先生方も、なけなしの給金の中から買っておいでのようでございました。その本がただで見れるようになったわけですから、図書館というものは、文明開化の場所といってよい所でございました。
  しかしながら、その5年後の明治40年に休館となってしまい、佐藤氏はすべての図書を新潟市に寄贈したのでございます。さらに,新潟市に、鍵冨三作氏が,図書館建設の資金として1万円という当時としては大金を寄付いたしました。新潟市では,この本と資金をもとに,新潟市立図書館を建設する案が立てられましたが,17000冊の本を死蔵しておくのは損失と考え,
  新潟小学校の中に「新潟市図書縦覧所」を開設したのでございます。
  この図書縦覧所の開所式が行われたのは、明治43年6月26日のことでございます。新潟市民が、新潟小学校に来て、本を読むことができるようになったのでございます。多くの市民の方々が,新潟小学校の図書縦覧所を訪れました。一般の市民の方々と子供たちが,新潟校で自由に読書する光景が見られ、それはそれはすばらしい光景でございました。お婆も、図書縦覧所の椅子にすわり、いろいろな本を手にとってみたものでございます。今の新潟小学校の図書館も、地域の皆さんが自由に本を読んだり、借りていったりできるとお聞きしております。大変結構なことでございます。
  さて、この図書縦覧所が大評判をとり、明治の御代も終わりごろになると、県立図書館建設の機運が高まってまいりました。、そのため,新潟市は,新潟小学校の図書縦覧所にあった蔵書と資金を、大正2年、県に寄付して県立図書館開館を願ったのでございました。
  県は、それらの本などをもとに、大正5年12月、新潟県立図書館を開館させたのでございますよ。場所は,新潟小学校のすぐそば,現在の日本銀行新潟支店の場所でございました。今は、鳥屋野潟のほとりに立派な図書館が立っておりますが、ずいぶんに遠くて、お婆のような者には、なかなか大層でございます。
  さて、新潟校に図書縦覧所ができて2年目のことでございました。なんと天皇陛下が、お隠れになったのでございます。本当にびっくりいたしました。
  それでは、天皇陛下御崩御のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十四話 明治天皇御崩御でございます


  今日は明治天皇御崩御のお話をいたしましょうか。
  学校に天皇陛下の御容態が悪いようだとの一報が入ったのは、明治45年7月20日のことでございます。学校では、さっそく生徒さんたちを集め、校長先生がみなさんに陛下の御病気のことを話されました。そして、ひたすら陛下の御病気がよくなるように全員でお祈り申し上げたのでございます。
  さりながら、その8日後、今度は陛下危篤の報が学校にもたらされたのでございます。そこで、新潟校では、この日から、唱歌とお遊戯の二つの勉強を止めることになりました。みんなで静かにして、陛下の平癒をお祈り申し上げたのでござます。
  しかし、その甲斐もなく、明治45年7月30日に御崩御されました。学校にその報がもたらされたのは、朝の5時50分でございました。早速、すべての生徒さんが呼び集められ、校長先生からお話がありました。そして、この日から、おって沙汰あるまで、すべての授業が中止されたのでございます。
  その次の日でございました。お婆が驚いたのは、明治という年号が大正にかわったのでございます。そして、町中に「歌舞音曲停止」というお触れが出されたのでございます。そのため、さしも賑やかな新潟の町も静まり返ったものでございます。
  そのようなわけで、この年は陛下御崩御一色の年でございました。陛下の大喪が行われたときには、新潟校の根津音七校長先生が、県内小学校長の代表として上京され、二重橋のたもとで陛下に最後のお別れをなさったということでございます。この年の新潟校の運動会も万事質素に執り行われ、来賓を一人も招かないなど、それはそれは静かなものでございました。
  私の祖父康太郎は、この十年前に亡くなっておりましたが、そのころまだ生きていれば、きっとこの騒ぎについて、「たかだか、人間が一人なくなったからといって、この騒ぎは何ですか。人間は死ぬものです。徳川様のときは、こんな大げさなことはしていませんでしたよ。」と、声高にいうのではないかと母と話しておりました。明治天皇御崩御から少しして、祖母の郁が静かにみまかりました。羽州屋の人々が、本当に明治という時代が終わったと思いましたのは、祖母の死によるものでございました。
  年号もかわった大正3年、新潟町と沼垂町が合併したのでございます。沼垂町は、祖母・郁が生まれた町でございます。
  それでは、合併のときのお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)