おばあの語り45話〜55話

第四十五話 新潟市と沼垂町が合併したのでございます


  今日は沼垂町との合併の話をいたしましょうか。
  私の祖母の郁は、元々沼垂町の米商人の家が実家でございました。祖母が羽州屋へ嫁入りしたころは、沼垂と新潟の間では何かと争いごとが多かったのでございます。それと申しますのも、昔新潟町が長岡藩の領地で、沼垂町が新発田藩の領地でございましたし、信濃川を挟んで、両方の湊が商売のことでいさかいをしていた歴史があったからでございます。
  しかし、明治の御代になり、同じ新潟県になると、狭い地域でいがみ合っていると国の発展から取り残されてしまうという考えの方々が多くなり、安藤県知事様の取り持ちで、大正3年4月1日に合併がなったのでございます。
  その日は、大きな通りや小路にまん幕が張られ、桜提灯や日の丸が掲げられました。花火が揚がり、500台の自動車が隊列を組んで行進したのでございます。
  また、白山公園で祝賀会が開かれたのでございます。この時、新潟校を含む市内の生徒さんは手に小旗を持ち、柾谷小路、東中通に整列して、沼垂小学校と山の下小学校の生徒さんを出迎えました。そのあと、一緒に白山神社まで行進し、白山様を拝んだのでございます。帰りは、新潟町の尋常6年生以上の生徒さんが万代橋を越えて、沼垂・山の下両小学校の生徒さんを送りました。そして、一緒に沼垂白山神社の白山様を拝んだのでございます。そのあと、沼垂小学校まで送り、そのグラウンドで全員で万歳三唱をしたといいます。もちろん生徒さんたちには、お菓子の袋が一つずつくばられたのでございます。夜になりますと、今度は大人たちが手に手に提灯を持ち、町中を行列をして歩き回ったと申します。
  今までは信濃川を挟んでそれぞれの港で別々に商売がなされていましたが、この合併により、信濃川の一つの港として発展する道が相談され、「新潟築港」が新しい新潟市の合言葉になったといわれております。
  このように、時代は大正になり、さまざまな変化がございました。新潟校に電話が入ったのも、その一つでございます。
  それでは、学校に入った電話のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十六話 電話が初めて引かれたのでございます


  今日は、電話開通のお話をいたしましょうか。
  新潟県内で一番早く電話が入ったのは県庁、次が警察署でございました。なんでも明治18年ころだったようでございます。一般でも電話が利用できるようになったのは、明治34年からで、もちろん交換手の方が取り次ぐ電話でございました。申し込む者が多すぎて、なかなか電話を引くことができず、順番待ちだったのでございます。私の実家の羽州屋も、お茶の取引をしておりましたので、いち早く電話を申し込んだのでございますが、なかなか当たらず、3回目くらいのときにようやく、電話を引くことができたと申します。交換手の方は初めは、男女共にいたようでございますが、後に女の方だけになったようでございます。明治の40年には、新潟駅前に日本で初めての自働電話ボックスが作られたのでございました。しかし、はじめは、新潟の市内や新潟と長岡などの間の通話だけでございました。東京と電話が初めて通じるようになったのは、明治41年でございました。しかし、新潟から東京に電話をかける場合、まず長岡へつなぎ、次の長岡から長野へつなぎ、そこからようやく東京へつなぐというように大層時間がかかるものでございました。
  新潟校に電話が入ったのは、明治天皇様が崩御される前年の大正2年でございました。ほかの小学校より1年早く電話が入りました。それまでは、ほとんどが書面で市や県、それぞれの学校と連絡しておりましたが、電話が入りましたことにより、それはそれは短い時間で用が足りるようになったのでございます。
  学校の変化といえば、電話のほかに、水飲み場ができたのでございます。それまではといえば、鉄瓶に水を入れて教室に運んでおき、そこから水をついで飲むのでございます。大正3年に男女別の控所、控所と申しますから、休憩所のことでございましょうか。そこに、水飲み場が新しく作られてのでございます。生徒さんは、皆おもしろがって、水飲み場の水を飲んだと申します。
  このころ、お婆は長男の徹人から来る手紙を心待ちにしていたものでございます。徹人は、京都・祇園の吉川で修行中で、まめに手紙をくれるのでございます。夫の治助は、手紙を見せても、何の関心もないように装うっておりますが、私がいなくなると、その手紙を何回も読むのでございます。可笑しゅうございました。
  大正という時代は、自由な時代でありましたが、なんとはなしに気だるい雰囲気の時代でもありました。それのためでございましょうか。学校の内外で生徒さんの風紀の乱れを心配する者も出てまりました。
  それでは、生徒さんの風紀のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十七話 男の教員の方が校外取締をしたのでございます


  今日は生徒さんの風紀のお話をいたしましょうか。
  そもそも新潟校の生徒さんの規律の正しさ、ふるまいの上品さは、定評がありました。お婆も本当に感心していたものでございます。しかし、このころから、新潟の町自体が非常に活気を帯びてまいりましたし、何せ新潟の商業の中心に近いせいもあり、人の集まりようは尋常ではございませんでした。また、大正という時代が、自由な雰囲気を呼び、そのようなことが生徒さんの素行に影響を及ぼすのではないかと心配する者が多くなってまいりました。
  そのため、明治43年に、学校で「校外取締規程」というきまりをつくりました。これは、学区を東西南北の四つに分割して、男の先生方が交代で受け持ち、巡視をするものでございます。男先生数人が見回っていくと、別に悪いことをしているわけでもないのに、生徒さんたちがこそこそと別の道へ隠れるのでございます。この様子を見ておりますと、とてもおかしく、主人と顔を見合わせ、笑ったものでございました。
  それでも、生徒さんの風紀が乱れるのを心配したものか、数年後に校内に風紀係の制度を作ったのでございます。これは、生徒さんの中から50人ほどを風紀係に任命して、校内を見回り、素行の悪い者を注意し、場合によっては先生に通報するというものでございます。
  大正という時代は、こういうふうに自由な雰囲気を尊重する力と、それを抑えようとする力が混ぜこぜになっていた時代でございます。
  このころ夫がよく言っていた「自由の力とそれを抑えようという力の二つの力が働く大正時代という時代の危うさ」という件(くだり)が、今にして思えば、次の時代を予言していたのかもしれないのでございます。夫の治助は一見聡明そうには見えないのでございますが、いつも物事をきれいな目で正しく見ていたように思えるのでございます。
  そんな大正という時代は、後に大正天皇と呼ばれる天皇陛下の即位で名実ともに始まったのでございます。
  それでは、天皇陛下の即位のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十八話 御真影が列車に乗ってやってきたのでございます


  明治45年が大正元年と改元され、後に大正天皇と呼ばれる陛下が即位なさいましたが、その御真影が学校に届けられたのは、大正4年のことにございます。列車に乗った御真影が、10月26日に、校長先生が整列して待つ新潟駅に到着いたし、すぐに県庁に運ばれました。県庁で、新潟市の川合助役様が受け取り、市役所に運んだのでございます。市役所で、新潟校の瀬賀校長と沼垂校の五十嵐校長が御真影を受け取り、巡査に先導された車で、それぞれの学校まで運びました。学校の近くの道路には、子どもたちが整列して、これを迎えたのでございます。
  一と月後、新潟校で、天皇陛下の即位をお祝いする式が行われました。それに先立ち、屋外体操場で千六百余名の児童の記念撮影が、金井写真師により行われました。この人数でございますので、写真を撮り終えるまで、なかなか時間がかかったものでございます。拝賀式と申すお祝いの式は、次のようでございました。まず、入場、敬礼の後、校長先生が御真影の扉を開きます。君が代を歌い、校長先生が教育勅語を読んで、お話をなさいました。さらに、大礼の唱歌を歌い、万歳三唱の後、御真影の扉を閉めたのでございます。子どもたちは、市役所から支給された紅白のお菓子を大事そうに持って、家へ帰りました。
  お祝いは次の日も続きました。各小学校の先生方と子どもたちが市役所に集まり、市長様の御発声で万歳を三唱いたしました。そして、そのまま全員が旗を持って、お祝いの行列をしたのでございます。
  今でも思い出しますのは、新しい陛下が即位した年、皆が皆、いかめしそうな顔の中にも、何ともいえぬ笑顔を浮かべていたことでございます。特に、羽州屋の父などは、明治という時代の終わりを懐かしんでおりましたものの、若い今上陛下が痛く気にいったようでございました。ただ、私の夫は、「何か、心持ちが、落ち着かない」と私に漏らしておりました。
  大正という時代は、新潟校にいろんな風をもたらしたのでございます。
  それでは、学校の新しい風のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第四十九話 男先生のスーツ姿は新潟小学校から始まったのでございます


  在任中に亡くなられた根津校長の後任として、31歳の豊川校長が新潟校に着任いたします。なんでも、渡辺市長様の肝入りによる着任とお聞きしております。57歳で亡くなった根津校長と31歳の豊川校長の給料が同じくらいという噂もございました。
  豊川校長の新潟校での第一声は「従来の伝統的教育を打破して、自由主義に基づく新教育を樹立する」という、何とも勇ましい物言いでございました。なんでも、東京の成城小学校の自由教育を取り入れようと考えていたようでございます。、また、豊川校長は、玉川学園の小原国芳先生とも親しくしておられ、小原様も何度も新潟校に足を運ばれたようでございます。
  豊川校長は、着任2年目に「教育改造五綱領」を発表さないまして、さっそく自由教育を強く進めたのでございます。新しい本の輪読会をなさったり、成城小学校の先生をお招きして研究大会を開催したり、とにかく先生方が勉強しておられました。
  自由教育などという難しいことは分かりませんでしたが、お婆の目にも変わったと思えることが二つありました。その一つは、新潟校の教室から教壇がなくなったことでございます。教壇と言うのは、教室の黒板の前に壇を作り、高いところから先生が生徒に教えるためのもので、県内の全小学校にあったのでございます。それを無くしたのが、「自由」というものなのでございましょうか。お婆には分かり兼ねます。もう一つは、男の先生方の服装を、全員背広に変えたのでございます。それはそれは、恰好がよく、さわやかないでたちでございました。今でも、新潟校の先生方は、背広をきちんと着こなし、颯爽と授業をなさっておられるようでございますね。
  私も、夫の治助に背広を仕立てようと思ったのでございますが、料亭の主人がそのようなものを着れるものかと、笑われてしまいました。料亭川甚で、そのようなたわいもない話をしていたころ、豊川校長が、とんでもないことになっていたのでございます。
  それでは、豊川校長のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十話 豊川校長が追われるように、お辞めになったのでございます


  それでは、豊川校長が急にお辞めになったお話をいたしましょうか。
  渡辺新潟市長様の絶大な信頼と大きな期待を受け、豊川校長もその期待にこたえようと、自由教育を一生懸命進めておられました。しかしながら、当時新潟市には、学校教育のための組織は整っておらず、一人小林書記が人事、給与等の一切を担当していたという状況でございました。
  豊川校長には、自由教育推進のため、大きな人事構想があったのでございますが、俸給などさまざまな点で、市当局の入れるところとならず、溝がだんだん大きくなっていったのでございます。「監督者は校費の有効性のみに対して監督すべきであり、学校組織については学校経営当事者の意見を尊重すべきである」が自論である豊川校長にとって、市当局の態度は納得いくものではなかったようでございます。
  また、豊川校長の急進的な改革も、それを良しとする者と、反対するする者に分かれるなど、学校の内外でも議論を呼んだのでございます。新潟校の先生方の中でも、若い学究的な方々は、豊川校長を熱く支持するのでございますが、中堅層の先生方は反発して、職員会議の前日、前夜などは、近くのお寺に密かに集まり、対策を話し合っているなどということを、近所の方々から聞いたこともござます。
  夫の治助などは、豊川校長に好意的ではございましたが、「他人様に分かってもらえないことを急ぎすぎてはいけない。」と独り言のように申しておりました。
  その後、豊川校長と市当局との対立は、ますます激しいものとなり、結局大正10年、休職を命じられた豊川校長は、追われるように新潟小学校をお辞めになったのでございます。
  このような学校の移ろいにもかかわらず、学校の近くの砂浜には、時代の分け隔てなく、日本海の波が寄せておりました。童謡「砂山」ができましたのは、そんなころでございました。
  それでは、「砂山」の北原白秋様のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十一話 「砂山」は美しい童謡でございます


  今日は北原白秋先生の童謡「砂山」のお話をいたしましょうか。
  大正という時代が新潟校にもたらしたものの一つに、童謡音楽がございました。これは、子供自身の分かりやすい言葉を使った童謡によって、子どもの美しい心を養おうというような考えから始まったものであったかと思います。
  大正11年6月のことでございました。白秋先生をお迎えして、新潟市児童音楽研究会が主催した童謡音楽会が開かれたのでございます。この時披露されたのは、「あわて床屋」「雪の降る夜」など、すべて白秋先生の作になる童謡でございました。先生ご自身も大変うれしかったと見え、壇上に上がり、踊りながら「ウサギの郵便」を歌ったと申します。
  音楽会終了後、新潟市内の小学校の音楽先生方と共に、浜茶屋で懇親会を開いた後、酔いに任せて、寄居浜を散策したのでございます。見えるのは砂山、見渡す限りのぐみ原、鬼ごっこをする子どもたち、藁屋根の浜茶屋、そして、日本海と佐渡でございました。灰色の雲が低く垂れ、今にも雨が降り出しそうな天気でございました。
  白秋先生は、この時の情景をもとに新潟の童謡をつくると約束されたのでございます。そして、小田原に帰られてから作ったのが、「砂山」でございますよ。お婆も、この歌は好きでございます。中山晋平先生が作曲され、大正11年9月号の「小学女生」に発表され、大層有名になったのでございます。
  この童謡「砂山」が、新潟で初めて歌われたのは、礎小学校だと言われています。音楽会で、礎小学校の子供と、卒業生の女学校生が一緒に歌ったのでございます。観客が千人と申します。大正という時代を、示すようなすばらしい音楽会でございました。
  夫の治助は、「童謡は、子どもらしい曲と子供らしい詞(ことば)が大切なのだ。それを歌いながら、それに浸ることによって、子どもは、素直な良い子どもになれる。今まで、学校で教えていた唱歌では難しい。」と言っておりました。そう言えば、夫の机の引き出しの奥に、北原白秋の詩集「邪宗門」を見つけたのは、昨年のことでございました。
  音楽の授業の中に、大正の自由な雰囲気がみなぎっていたころ、体育の授業も、様変わりしてきたように思います。
  それでは、自由体操のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十二話 自由体操の研究会も開かれたのでございます。


  それでは、自由体操のお話をいたしましょうか。
  大正に発した自由教育は、それまでの画一的な教育をよくないとして、児童の個性を尊重し、児童のもつ力を思いっきり発揮させようという考えではじまりました。それが、体育にも及んだのでございます。それまでの体育は、先生の号令により、体を動かすということを基本としておりました。さらに、この時代、体育、体操、今でいうスポーツは、学校では行うが、卒業するとだれもやらないという状況でございました。
  自由体操というのは、卒業しても、自分から体操を行うようにならなければならないという考えのもとに行われました。これは、教師の号令ではなくて、自分の思いとおりに運動することによって、運動する喜びを感じる。だから、自分で運動をしたいという心持ちがわくというものでございました。
  具体的にどのようにするのかと申しますと、1、2年生は、教師が模範を示して、児童はそのまねをする。3、4年生は、一斉授業によって、体操の興味を養う。5年生は体格別に班ごとに編成して、自分の体格を自覚する。6年生は、自分で自由に体操を作って行わせるというものでございます。今から考えると、まことに理にかなった授業でございます。
  自由体操といいますと、子どもの自由気ままにさせておくような気もいたしますが、新潟校や大畑校で行われたものは、そうではございませんでした。たとえば、児童に自発的な態度が見られなければ、絶対にこれを許さない。練習は確実にさせ、ごまかしを決して許さない。いったん児童が立てた計画は絶対にさせる。など、厳しいものでございました。
  このような、自由体操の研究大会が行われ、たくさんの学校の先生方が新潟校にお出でになりました。しかし、だいたいのものがそうでございますように、段々広がっていくと。初めの趣旨が徹底しないことがございます。この自由体操も、厳しく監督するという面が弱められ、子どもの好き勝手にという面ばかり、強調されたようでもございます。
  父の雅之介と夫の治助は、このような話題が好きとみえ、出会えば何とはなしに話し始め、議論にまではいかないのでございますが、なんとなく物別れで話が終わるのを、お婆は、少しおかしく見ていたものでございます。
  そういえば、このころ、日本の学校ができて50周年でございました。
  それでは、新潟校の学制50周年式のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十三話 学制50周年でございます


  日本の学校制度ができて50周年の記念の式や催し物を学校で行ったのでございます。
  新潟校では、能村竹次郎校長の講話があり、引き続いて学芸会が開かれました。このころから父兄をはじめ一般の方々も詰めかけ、なんと来校者が2000人もあったと申します。
  今でもその時の様子は覚えておりますが、まず4年生の男子の談話「王様のこじき」の後、女子も負けじと、5年生が「アレキサンドル大王と医師フィリップ」を朗読します。澄み切ったよい声でございました。次に唱歌「お月さま」、談話「地獄めぐり」、暗唱「四季の月」、「母の愛」と続きました。そして、対話「水師営の会見」では、特に大きな拍手がおこりました。子どもの出し物の最後は、朗読「みよちゃん」でございました。
  先生方も弦楽器の合奏を披露されたり、お琴を合奏されたりもなさいました。
  午後は、児童の作品展覧会が開かれました。各学級ごとに一室を設け、図画と書き方を展示してございました。1,2年生は写生画が独創的でございました。4年生から女子の裁縫作品も加わって趣を見せておりました。5年から高等科の生徒の図画などは、大人も及ばないほどの作品でございましたし、校舎の2階にありました新潟商工補習学校の機械製図科や建築製図科の生徒さんの作品は、レンガ造りの洋館の設計図など、それはそれは見事なものでございました。
  娘の法も、功一の子守をしながら、展覧会のほうだけ見に行ったのでございますが、功一が製図の傍から離れるのを嫌がり、この子は建築に興味があるのかと、家じゅうで話していたものでございます。
  このように学芸会や展覧会などになれば、学校というものは父兄だけではく、地域の皆様方が集まり、何かにつけて楽しむ場所でございました。そんなおりでございました。新潟校に学校を後援する集まりをつくろうという声が高まったのでございます。
  それでは、新潟校の父兄会のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十四話 父兄会ができたのでございます


  今日は父兄会の話をいたしましょうか。
  学制50周年の式などが開かれたころ、それぞれの学校で学校を助ける後援会のようなものを作ろうとする動きが活発になりました。新潟校でも、大正11年11月に父兄の有志が集まり、後援会設立について話し合いが始まりました。翌月にも、昼夜2回の父兄懇談会が開かれます。後援会設立の中心となった山田英源様と父兄や教師が、その趣旨などについて、話し合ったと申します。
  そして、12月7日に後援会の名称を「父兄会」として、「父兄会発企者会」が設立されます。
  多くの方々の働きがあってか、大正12年1月29日には、新潟校父兄会総会が開催され、翌年度の予算が承認されたのでございます。
  父兄会とはいっても、今のPTAとは違い、あくまでも後援会として、学校の施設や備品、消耗品などの支援をするための会でございました。たとえば、同じころ発足した大畑校父兄会を見ますと、次のような品物が購入されて、学校へ贈られたのでございます。
  教室備え付け地図掛け図、児童参考図書、算術練習カード、蓄音器レコード、写生用画板、秒時計(ストップウォッチのこと)、書初め手本
  また、このころ、学校だよりのようなものも出されるようになりました。大畑校では、大正14年に「学校から家庭へ」が出されております。その中に、尋常科1年の受け持ちの先生が、父兄向けに書いている「ありたいこと」という文がございました。読んでみましょうか。
  「◎優等生の鉛筆は2本以上で先が光っている。図画帳もクレヨンも常に用意がよく、雑記帳も正しく使用されている。◎まだ1から10までの加減のできない者、カタカナを覚えない者がある。少しの注意ですぐできるようになるのだが。◎『勉強せよ』というよりも今日学校でどんな話を聞いたか、何を習ったかと静かに子どもに話を持ちかけて学業の面白みをさとらせるようありたい。◎『子を見ること親にしかず」と昔からいわれているが、子どもの性質は他人に尋ねるまでもなく十分知っているべき筈。◎乃木大将夫人は、自分の子供の短所長所を教師に残りなく告げたということである。尊いことだ。」
  そう言えば、新潟校で父兄会ができた年、大震災が起きたのでございます。
  それでは、関東大震災のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十五話 関東大震災が起こったにでございます


  大正12年9月1日の正午ころ、神奈川県沖を震源とする地震が起きたのでございます。世に言う関東大震災でございますよ。新潟の人々にこの報せがもたらされたのは、その夕方でございました。被害が言語に絶するとか、とにかくひどい状況であることを伺わせる報せでございましたが、被害の内容は一向に分からないままでございました。
  中には、「東京を含む関東地方が全滅」という者がいたり、「津波が群馬の赤城山にまで達した。」とか、「大臣など、政府の首脳が全員死亡」などと声高に叫んで回る者がいるなど、新潟中が騒然となったものでございます。
  確かに震災の爪痕はすさまじいものでございました。死者行方不明者合わせて14万人、負傷者10万人、全壊した家12万戸でございました。
  新潟校でも、子供たちに先生方から震災のことが伝えられました。東京に叔父や叔母など親類がいる子供の家などでは、まったく連絡がつかず、心配する日が続いたと申します。そして、間を置かず、校内で関東大震災義捐金を集める取組が行われました。集まったのは208円と申しますから、今のお金で、200万円、ものすごい金額でございますよ。このお金は、市役所に持っていき、そこから東京へ贈られたと申します。さらに、お金以外に様々な物を慰問袋に詰めて贈くろうという話が持ち上がり、結局25袋をを整えて、やはり市役所を通じて、東京へ贈ったのでございます。
  このほかに先生方も、もらっている給料の額により、給料の1割(10%)から3分(3%)を差し出せという命令が下り、それぞれ拠出したとお聞きしております。
  こんなこともございました。長男の徹人でございますが、これが切手を集めるのが趣味で、裕仁皇太子殿下と良子女王の御成婚記念切手を買おうと前々から言っていたのでございます。ところが、その記念切手が震災のため、ことごとく逓信省の倉庫で焼けてしまったのでございます。徹人は今は、うちの板前をしておりますが、京都の料亭に修行に行っていたころのつてを頼り、すでにパラオに送られていた数少ない切手を手に入れたのでございます。商売にもこのくらい熱心でございますれば、いうことはございませんが。
  ところで、その皇太子殿下でございますが、今上天皇、後に大正天皇と呼ばれる陛下が崩御されて、天皇におなりになるのでございます。
  それでは、昭和の今上天皇の大典行事のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)