おばあの語り63話〜75話

第六十三話 防空演習でございます
 


  それでは、防空演習のお話をいたしましょうか。真珠湾攻撃から1年がたった翌17年12月9日でございました。大東亜戦一周年防空強化運動がはじまったのでございます。きちんとした計画が立てられ、そのための研究会も開催されました。その計画によって、1か月後に二日に渡って防空訓練演習が行われたのでございます。一日目は飛行機からの焼夷弾に対する消防・防火訓練でございました。鈴木巡査部長様が講師でございました。二日目は空襲警報がなった場合の退避の仕方や万が一けが人がでたときの救護の仕方の訓練でございました。講師は小林警部補様でございました。生徒さんは、家から持ってきた防空頭巾をかぶり、しっかりとあごのところでひもを結んでお話を聞いたのでのございます。小林警部補様は、あごひもが緩んでいる生徒を見つけますと、「気持ちの緩みは、細かいところに出ます。それが命を落とすもとになります。しっかりとひもを結ぶのですよ。さあ、今すぐ結びなおしなさい。」ときびしく注意しておられました。注意された生徒さんはもちろん受け持ちの先生も、伸ばしていた背筋をさらに伸ばして、直立不動の姿勢でその言葉を聞いていたものでございます。ときどき先生方も市の公会堂に集められ、防空幹部講習会というものを受けておられました。
  二月の寒い日でございました。新潟校の出身で二葉高等小学校に行っている子供が先生方にあいさつに見えたことがございました。新潟校にいるときは、ひょうきんでいたずらっ子でございましたが、その日は、いたって真面目な顔立ちでございました。なんでも、満蒙開拓少年義勇軍に入隊することになったのであいさつにみえたということでございました。当時は、満州への移住民こそが、日本の将来の礎と信じ込まされていた時代でございます。集団開拓民や自由開拓民のほかに、少年義勇兵の募集がさかんに行われ、義勇兵の募集は、おもに高等小学校にまいったものでございます。
  少年義勇兵の皆さんは本当に健気でございました。満州の極寒の中、自分の身の丈を上回る歩兵銃を持ち、衛門の前に立ったそうでございます。そういたしますと、オオカミたちの声が遠くから聞こえてくるのでございます。そんな中、少年たちは、一生懸命に義勇兵の綱領を心の中で唱えたと申します。「われらは、、天祖の宏讃を奉じ、心を一つにして追進し、身をもって満州建国の大御心に添い奉らんことを期す。…」
  新潟県の少年義勇兵は3290名、再び故国の土を踏めなかった方々が400名以上いたと申します。
  このころでございました。新潟校で金属の供出運動が盛んに行われたのでございます。
  それでは、供出運動について、お話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十四話 金属を供出したのでございます


  それでは金属の供出について、お話いたしましょうか。
  夫の治助は、学校での金属供出運動の話を聞くと、何ともやりきれないお顔をするのでございます。昭和16年に「金属類特別回収令」が出されてから、供出運動が始まりました。飛行機や戦艦を建造するには、どうしても金属が必要であったのでございます。なんでも新潟市の金属の回収目標は鉄6トン、銅3トンとされたとお聞きしております。沼垂校では尊敬を集めていた元の校長先生の胸像がリアカーに積まれたり、多くの学校で二宮尊徳の像が運ばれたりしたのでございます。新潟校でも、二宮尊徳の像が運ばれるときなどは、全校の生徒さんが集まって壮行会を開いたものでございます。その姿は、勇ましく、そして、さびしものでございました。
  もちろん夫の治助の眼には、このときすでに敗戦が見えていたのでございます。このころから、夫はものを思うのを止めたかのように、一層家業に励むのでございます。お客様は軍の偉い方々や軍閥の方がほとんどでございました。
 
  供出は金属だけにとどまりませんでした。茶がらの供出が強く求められました。茶がらは、軍用馬のえさになるのでございます。生徒さんは、自分の家から出る茶がらを持って登校したものでございます。「ヒマの種」の供出もございました。これは、家で「ヒマの種」を植えて、それを子供たちが学校へ持っていくのでございます。その種を絞ったのが、「ヒマシ油」でございます。これが、飛行機の燃料になるのでございます。このほか、レコードの針の供出運動もございました。
  沼垂校で松の大木が船材として供出されたという話も伝わってまいりました。沼垂校は、昔新発田藩の御蔵があったところで、その松も三百年以上たった立派なものでございました。沼垂の町のみなさんは、皆その松を見て育ったものでございますが、その松30本が供出されたのでございます。残されたのは、堀部安兵衛の手植えの松と伝えられる2本でございました。堀部安兵衛でございますか。安兵衛は、新発田藩の出身で、中山安兵衛といい、父の代に浪々の身となってから、明石の赤穂藩の堀部家に養子になったのでございます。どういったわけかは知りませんが、その安兵衛手植えの松といういわれのある松が、新発田藩の蔵屋敷にあったということでございましょう。
  新発田と言えば加治川の桜が有名でございますが、その加治川の桜をいたく好んだ軍人がおりました。山本五十六元帥様でございます。その山本様が亡くなったという報せが入ったのでございます。
  それでは、山本五十六様について、お話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十五話 山本元帥は高野五十六様と申されました


  それでは山本元帥のことをお話いたしましょうか。元帥は長岡の出で、元は高野五十六と申しました。大正の御代になってから、元の長岡の殿様であった牧野子爵様のおとりなしで、旧長岡藩の家老であった山本家を継いで、山本五十六となったのでございます。
  元帥は、もともとアメリカと戦争を構えることには反対であったのでありますが、歴史の皮肉から、真珠湾攻撃を企図することになったのでございます。昭和18年ブーゲンビリア島上空でアメリカのP38戦闘機に撃墜され、帰らぬ人となり、遺骨はトラック諸島に運ばれ、そこから戦艦武蔵で、本土へ運ばれたのでございます。
  元帥の死は、1か月以上秘密にされたと申します。日本海軍の英雄の死でございましたから、さもあろうと思います。
  元帥の死が報ぜられると、新潟校では、すぐに元帥の顔を描いた図画や元帥が軍艦を指揮している図画、さらには元帥への感謝の言葉の習字などを集めた展覧会が開かれたのでございます。
  また、山本五十六元帥の国葬は、6月5日に行われたました。新潟校でも、午前10時から遙拝式が行われ、全員で元帥の喪に服したのでございます。式が終わると、さらに3年生以上の生徒さんが集められ、元帥を偲ぶ作文朗読会が開かれました。生徒さんは、悲しいというより、驚きがおさまらないようでございました。なにせ、神様と教えられた軍人さんが亡くなったのでございますから。
  12月になりますと、山本元帥記念事業のための資金集めが、大々的に行われました。教職員は給料の1%、生徒さんは一人二銭を出しあったのでございます。
  元帥の死が発表された直後、私どもの料亭川善の客足はぴたりと止まりました。一時は、どうなるのか店のものたちとおろおろしたものでございます。夫の治助は、いつと変わりなく、客がいつきてもいいようにしておりました。そのうちに、少しずつ客は戻ってきたのではございますが、なんとなくお座敷の雰囲気が違うのでございます。これは、客商売の者にしか分からないことかもしれませんが、座が投げやりともうしましょうか、何かにせきたてられるような空気が流れておりました。お酒が過ぎての喧嘩も増えたようでございました。
  そして、料理の材料がだんだん限られていきました。軍人さんが来る料理屋でさえそうですから、一般家庭は本当に食べ物がなかったのでございます。
  それでは、食べ物のなかったころのお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十六話 とにかく食べ物がなかったのでございます


  それでは食べ物の話をいたしましょうか。
  よく街角に「節米の励行」というビラが貼られておりました。お米の無駄をなくし、豆をまぜるとか、麦飯にするとかして、お米を倹約しようとの呼びかけでございました。新潟校の生徒さんたちも弁当を持ってはくるのでございますが、弁当箱の中身がサツマイモ2本であったり、麦が交じっていたり、さまざまでございました。でも、弁当を持ってくることのできる生徒さんはまだいいほうでございました。弁当の時間になると、教室から姿を消して、外運動場で遊んでいる生徒さんもおいででした。
  新潟校の小林訓導様からお聞きした話でございますが、学校菜園、今は新潟校と寄居中のプールになっている場所でございますが、そこに新潟校の先生と生徒さんとで野菜や芋を植えておりました。ある日のとこでございます。朝早く小林訓導様が学校菜園へ行ってみると、そこで芋を掘っている者がいるのでございます。「コラッ」と怒鳴りつけて捕まえてみると、「孫に食べさせたい」と老人が泣いていというのでございます。しかし、皆が食い物のない時代、許されるものではございませんでした。
  また、こんな話も聞きました。カボチャをちょくちょく家へ持ち帰る生徒さんを見つけたので、担任の先生に知らせたのでございます。あとから、担任が小林訓導様に申しますには、あの子は、義理のお母さんに褒められたい一心で、野菜を家へ運んでいたとのとこでございました。なんとも悲しくなる話ではございませんか。
  食べ物でさえこの有様でございますから、着るものなども大変でございました。国民学校では、祝祭日は礼装、男の子は洋装、女の子は振袖に袴を着るようなきまりでございましたが、このころそれを止めたのでございます。そもそも、服が手に入らなくなっていたのでございます。
  小林訓導様の同僚の先生も、自分のセーターを奥さまからほどいてもらい、子ども用のセーターに編みなおしてもらったのだそうでございます。なんとそれが、銭湯で盗まれたと申しておりました。
  こんな不自由な生活でありましたが、なぜか、学校では映画が盛んに上映されたのでございます。
  それでは、映画のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十七話 学校でよく映画が上映されたのでございます


  それでは、新潟校で上映された映画のお話をいたしましょう。
  通常新潟校では、春と秋の二回の映写会が行われておりました。、これは、屋内運動場に映写機を据え付け、暗幕を張って、低学年と高学年に分かれて、映画を見るのでございます。新潟校、大畑校、礎校にあった映写機は皆「デブライ」と申す機械で、このあと、「ベル12号」という機械も使われました。もちろんこれらの映写機は、無声映画の機械で、音は出ません。声や音楽がないまま、カタカタと映写機の機械音だけが、暗幕で閉じた空間に響いているのでございます。子供たちに聞きますと、そのほうが何と申しますか、臨場感があったといいます。
  戦争が激しくなると、通常の年2回の映写会のほかに、臨時に映写会が開かれたものでございます。昭和19年の場合、少年航空通信兵の活躍の様子を描いた映画の映写会や満州の産業増強運動の様子の映写会が行われました。特に少年飛行兵の映画は、男の生徒さんには、大層評判が良かったようでございます。
  このような映画は、新潟市小学校映画連盟の人たちによって供給されておりました。この連盟は、新潟市の全部の小学校がお金を出し合って作られたもので、フィルムを購入し、学校の希望に応じて貸し出すのでございます。貸し出されたフィルムには、「マレーの少年航空兵」「陸軍落下傘部隊」などの戦争の映画やニュース映画、「カンガルーの誕生日」「なまけ狐」などの漫画映画、「風の又三郎」「ともだち」などの劇映画というように、様々なものがございました。
  生徒さんたちに一番人気があったのは、劇映画でございました。なにせ、テレビなどがない時代のこと、生徒さんたちは、それはそれは映写会を楽しみにしていたものでございます。
  夫の治助は、映画というものを、大層気にいっており、時折映画館などへ出かけておりました。ただ、子どもに何を見せるかということについては、「映画は簡単に子どもの頭の中を変えてしまう」と漠然とした不安と申しますか、心配をしていたようでございます。それと申しますのも、二男の貫二が芝居にかぶれて東京へ飛び出たままもどらず、音信も途絶えておりましたので、映画の中に芝居の何倍もある人を動かすエネルギーを心配していたのかも知れません。
  それはそうと、このごろ新潟校で味噌汁給食が始まったのでございます。
  それでは、給食のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十八話 味噌汁給食が始まったのでございます


  それでは給食のお話をいたしましょうか。新潟市の小学校給食は昭和のはじめに一部の学校で、家から弁当を持って来ることができない子供のために始まったのでございます。後に統合する新潟校、大畑校、礎校のうち、特に礎校は、給食に熱心に取り組んだのでございます。
  礎校の給食は家からご飯を持ってきて、学校では料理が1、2品出る「副食給食」というものでございました。昭和11年9月5日の献立は「ロールキャベツとたくあん漬け」。ロールキャベツは、豚ひき肉とじゃがいも、玉ねぎ、青豆、キャベツが材料でございました。このように大層ハイカラな料理が出た時などは、お母さん方が作り方を学校に聞きにきたりもいたしました。昔からの料理もございました。同じ年の9月12日の献立は、「煮しめ、佃煮、たくあんの漬物」でございました。煮しめは、なす、里芋、油揚げ、かぼちゃが材料でございました。礎校の給食は、女子(おなご)先生が献立をつくり、「炊夫」さんとよばれた調理員のみなさま5人で料理をしたものでございました。
  そういえば、夫の治助が礎校に古くからいた先生にお聞きした話がございました。それは、新潟市でも給食が進んでいる礎校に新しく赴任された先生が言っていたことでございました。その先生は、「私は家では家族や子どものお給仕や汁盛りなどしたことがない。しかるに、この学校は、生徒のおかずの盛り付けを教師にさせるとは、もってのほかである。師道まさに地に落ちたと言うべきである。学校がここまですることはないだろう。」これを聞いた治助は、私に次のように言ったものでございました。「この給食というものをきっかけに、学校というものが大きく変わっていくような気がする。学問を教えるという役目だけでなく、病院の役目や保育所の役目、家庭の役目まで、学校がしなければならぬような気がする。そうなればまた、困った問題が起こってくるものよ。」お婆も、その時は何のことか分からなかったのでございますが、今となれば、よく分かるのでございます。
  太平洋戦争が激しさを増した昭和19年ころには、新潟校でも味噌汁給食が始まったのでございました。新潟校では、専門の炊夫さんが作るのではなく、高等科の女子(おなご)の生徒さんが8人ずつ当番になって作るのでございます。材料を手に入れるのが難しくなってまいった時代でございましたが、沼垂校で食べられる野菜の研究をして、それまで見向きもされなかった雑草が、りっぱな材料になるようになりました。「たにし」もとって、味噌汁にいれたこともございました。一口に味噌汁給食といいましても、生徒さん一人について味噌9グラム、塩1.5グラム、野菜37.5グラム、たんぱく質6.25グラム、カロリーは20カロリーを目安にしておりましたから、これを続けるのは大変な努力がいったものでごあいました。
  このころ新潟校でさかんに映写会が開かれたのでございます。
  それでは、映写会のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十九話 それは用務員室の箪笥の中に隠されたのでございます


  昭和20年8月15日は、忘れることができない日になりました。正午に重大放送があるからと言われ、料亭川善の使用人を含め、ラジオの前に正座いたしておりました。すると、ザーサーという雑音の後に今上陛下のお声が聞こえてきたのでございます。一つ一つの言葉は難しく分かりかねましたが、「ああ、日本が負けたのだ」ということは分かりました。主人が、放送の中身を説明すると、使用人の中には、泣き出す者や外に走り出ていく者などがおりました。お婆はただ庭のもみじの枝を眺めておりました。そうすることが、一番ふさわしいと思えたからでございました。
  新潟校のことではございませんが、当時学校には暁部隊という兵隊さんがいて、このラジオ放送の後、学校の映写機や暗幕、ステージの緞帳など、めぼしい品物をみなどこかへ持ち去ったという噂を聞きました。昨日まで、皇軍として生徒さんの手本になろうという方々のなされようとはとても思えなかったことを覚えております。ただ、どの学校でも窓ガラスが盗まれるということが続きました。そのため、新潟校でも、ガラス板一枚一枚に学校の名前を刷り込んでいたものでございます。
  新潟校には、よその学校にはない心配事がございました。それは、東郷元帥様から贈られた「新潟」と書かれた校旗でございます。日本海軍の神とあがめられた元帥様の書かれた校旗のことを進駐軍が知ったら、お咎めがあるのではないかと言いだす者がおりました。それからしばらくして、あの旗が忽然と姿を消したのでございます。
  新潟に入ってきた進駐軍は、市の公会堂、今のリュートピアの場所でございますが、そこを新潟軍令部の本拠地としたのでございました。そして、将校は万代橋ホテル、新潟ホテルと新津様のお屋敷にお入りになり、兵隊は白山校に入ったのでございます。白山校の生徒さんは、新潟校や礎校などに分けられて、勉強いたしました。後に白山校は地域の方々が進駐軍に掛けあってくださった甲斐もあって、返されて生徒さんが勉強できるようになるのでございますが、返還されたときの校舎がひどかったと申します。礼法室はダンスホールに使ったものか、青一色に塗られ、そこに星の形や女の人の裸の絵が描かれておりました。さらに校舎中の落書きも目を覆うものでございました。白山校の先生のお一人が、落書きを見て、「こんな者たちに負けたと思うと、情けない」と言っているのを聞いたことがございます。
  新潟校の校旗の行方でございますか。あの校旗が出てきたのでございますよ。それは、世の中が少し落ち着き、新潟の人々が進駐軍のやり方に慣れた時であったと記憶しております。そのころは小使室と呼んでおりましたが、今の用務員室の箪笥の奥にていねいに隠されていたのでございます。なんでも、先生方と当時父兄会の会長でありました行形松次良様が相談されて、そのようにしたのだそうでございます。行成様と申すのは、料亭・行形亭の御主人様でございますよ。
  さて、進駐軍が来てからの、新潟校は変化の激しいものでございました。
  それでは、新潟校の変わり様のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十話 新潟市立新潟小学校と名前を変えたのでございます


  昭和20年は、新潟校にとって、それはそれは忙しい年になりました。白山校に進駐軍が入ったので、白山校の生徒さんが、新潟校に間借りしたのでございます。生徒さんたちには、進駐軍の兵隊に対してどんなことに注意するかというお話がございました。また、それまで教えていた柔道や剣道、教錬が中止になりました。さらには、これまで飾られていた今上陛下の御真影が外され、市役所にお返しすることになったのでございます。
  そんなおり、進駐軍のみなさんが新潟校にお出でになったのでございます。学校教育視察と申しておりましたが、校長先生以下、もしも不審なことがあれば、どのような咎めを受けるかと心は穏やかではございませんでした。幸い何の注意もなく、無事視察が終わったのでございますが、その時の先生方の御顔は本当にお疲れのご様子でございました。また、先生方の間で教員組合を作るようにとのお達しがあり、準備会や総会などが矢継ぎ早に開かれたのでございました。
  21年3月になりますと、教科についても、「修身」と「国史」、「地理」「武道」を教えることを禁止する命令がだされました。そして、先生方を対象にした教育問題懇談会や講演会などが、講師先生を迎え、様々な学校を会場に開催されました。演題は、「新教育の動向」とか「個性指導」、「新教科講習」、「教育の民主化」など、やたらと「新」、「個性」、「民主化」、「新生活」という言葉がついておりました。
  しかしながら、このころは先生方にとって、どうにもやりきれない時代であったようでございます。教員適格審査というものが行われたのでございます。生徒さんに戦争を強要する教育をしたとか、しないとか、そのようなことを一人ずつ取り調べられ、審査が行われたと申しますよ。
  そして、22年4月1日、新潟国民学校と呼ばれていた新潟校が、「新潟市立新潟小学校」という現在のような名前になるのでございます。
  そうそう、このころでございました。新制中学校がつくられたのでございます。しかし、この校名を決めるのが、またひと悶着あったのでございます。
  それでは、中学校の名前のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十一話 寄居中学校は新潟中学校になったかもしれないのでございます


  それでは中学校の名前の話をいたしましょうか。昭和22年のことでございました。急に新制中学校をつくることになったのでございますが、それぞれの中学校の名前をどうするかということについて、大変な議論があったのでございます。
  一番もめたのが、今の白新中学校でございます。はじめは白山中学校という名前がついていたのでございますが、その後、敷島中学校という名前を仮につけることになりました。このとき、白山小学校の父兄の方々が、「なぜ白山中学校の名前を変えるのか」と反対を唱えたのでございますよ。それを聴いた鏡淵小学校の父兄の方々は、「白山はだめだ。敷島中学校でいいではないか」と主張し、連日にわたって各方面に運動をしたのでございました。どちらも譲らなかったため、村田市長様が仲裁に乗り出しました。そして、「江南中学校」という名前を提案なさったのですが、それでもまとまらなかったのでございます。時の校長先生や教頭先生などが中心となって、両者が話し合い、結局「白新中学校」にまとまったと申します。
  今の関屋中学校の名前も大変でございました。名前の候補としては、浜浦中学校、新潟中学校、青山中学校、関屋中学校、関浜中学校、浜関中学校などが挙げられたのでございます。結局最後まで残った関屋中と浜浦中では、「辺鄙な浜浦の名前には反対」との意見が多くあって、関屋中になったという話をお聞きしております。
 
  また、新潟小学校と礎小学校の卒業生が通うことになる中学校の名前でございますが、当初、「新島中学校」という名前に決まっておりました。これに対して新潟小学校の父兄の皆さんは、「新潟中学校」がいいと主張したのでございます。これを聞いた礎小学校の父兄の皆さんは、「それでは新潟小学校の中学校のようになってしまう」と反対し、「新島中学校」の名前をつけることを主張したのでございます。これがなかなか決着がつかず、長い話し合いが持たれたと申します。そして、どなた様の知恵かは分かりませんが、新潟市の発祥の根源は寄居村であり、ここから発展して今の新潟の繁栄があるのだから、その「寄居」がいいのではないかという話になったのでございます。その話を聞いて、皆賛成したと申します。そうでございますから、もしかしたら、寄居中学校は、「新潟中学校」あるいは、「新島中学校」になっていたかもしれないのでございます。
  ところで、このころ新潟校で新しい教育の研究会が開かれたのでございます。
  それでは、「新教育研究会」のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十二話 新教育の研究会が開かれたのでございます


  それでは新潟校の「新教育研究会」についてお話いたしましょうか。
  当時、日本で最も注目された教育研究は、附属新潟小学校の「新潟プラン」でございました。これは教科ごとにばらばらに教えるのではなく、それぞれに密接に関係づけ、生徒さんの経験を大切にした統合カリキュラムと申すのでしょうか。総合的に教えることを研究していたのでございます。全部の授業が、すべて今の「総合的な学習の時間」のような授業だったのでございました。
  これに対して、新潟校は、一つ一つの教科を大切にする研究を始めます。昭和24年、新潟県新教育研究校としての指定を受けます。研究目標は、「わがままを言わないで規律ある生活と健康な生活を営む」でございます。翌年その成果を発表いたしますが、それを基礎として、さらなる研究を続け、28年に研究会を開催したのでございます。
  このときの新潟校の研究は、附属新潟小学校とは正反対の伝統的な教科の学習を大切にするカリキュラムを民主主義に適合するよう改良して提案したのでございました。もちろん附属新潟小学校も新潟校も、「子供の内にあるものを引き出す」という点では全く一致していたのでございます。
  さらに、新潟校では、教科の指導と並行して、教師の指導技術を見直すことを提案したのでございます。
  当時の栃倉巧校長様は、研究会当日、次のように申したのでございます。「最近の教育研究は、指導原理の難しい理屈にばかり終始している。原理だけで具体的な指導に役だっていない。従来は次元が低いというので技術的なものを軽蔑してきたきらいがある。それに対して私たちは、その日その時間の指導技術によって、児童の力にいかにプラスするかという問題に取り組み、とかく次元が低いといわれている指導技術の問題を1昨年から研究してきたのである。」
  子供に力をつけることを第一義とする新潟校の伝統が脈々と生きているお言葉でございます。このときの研究紀要「学習指導の新しい技術」は、名著と言われております。
  このころ新潟校の先生方は、このような教育技術の研究のかたわら、授業に映画を使おうとがんばっておられたのでございます。
  それでは、新潟校の先生方の映画のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十三話 新潟校の先生方が映画を作ったのでございます


  今日は新潟校の先生方が作った映画の話をいたしましょうか。昭和25年ころから、新潟市の小学校では、先生方が子どもたちの勉強のために、スライドを作ったり、映画を作ったりしたのでございます。今でも覚えたおりますのは、新潟校の上坂進先生が制作した「鉄棒をしよう」という400フィートの映画や貝谷東吾先生が制作した「鉄棒をしよう第二部」という300フィートの映画でございます。上坂進先生は、「バス」という600フィートもの映画も制作なさいました。録音は、岩野巌先生や三国吉弘先生が担当なさいました。出来あがった映画は、新潟市のたくさんの学校を巡回したものでございます。新潟校に来た時、子どもたちは大層喜んで見ておりました。
  このころ、ラジオでも放送教育の大切さが言われはじめました。当時は「QK」と呼ばれておりましたNHK新潟放送局がございましたが、占領軍のCIEの許可がでなければ、番組も作れない状況でございました。そんな中、忘れもしません昭和26年3月18日、新潟校で県下初の「子供のど自慢大会」が開かれ、ラジオ放送されたのでございます。82名の子供が出場して12名の子供が鐘を三つならしました。この年にサンフランシスコ講和条約が結ばれてから、CIEの検閲も少なくなったということでございました。
  NHKは、学校教育の番組を第二放送として午前中放送いたしましたが、その中で水曜日の11時15分から30分までのローカル番組「伸びゆく新潟県」が面白うございました。覚えておりますのは、「織物の十日町と千手発電所」、「越後梨と亀田町」、「石油の柏崎」などでございます。
  また、学校内の放送設備もだんだんと整備されてまいりました。白山小学校と白新中学校の放送機はとても高価なものだと聞いております。新潟小学校の放送機が60Wであったのに対して、白山小学校は100Wでございました。新潟が視聴覚教育県として名声を高めたのは、この白山小・白新中・中央高校で昭和25年に開催された全国視聴覚教育研究集会のためでございました。
  このように新潟市は、全国の放送教育・視聴覚教育をけん引する役割を果たしたのでございます。それはそうと、同じ頃に新潟校に学校図書館が開館したのでございます。
  それでは、新潟校の図書館のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十四話 学校図書館が開館したのでございます
 


  新潟校の図書館が開館したのは、昭和27年のことでございました。6月12日、図書館開館式が行われたのでございます。
  これより2年前の昭和25年には、すでに礎校で学校図書館が開館しておりました。ちょうど、礎校が創立五十周年に当たり、その記念として開館したのでございます。礎校はこのころ、子どもの「生活」を中心にすえたカリキュラムを作っており、その学習のために必要な本や資料を集め、図書館に保管したのでございます。ですから、単に読書のための図書館というより、勉強のための図書館というものでございました。そして、子どもたちに図書館の利用の仕方を教えたのはもちろんのこと、資料の読み方やノートのまとめ方、調べたことの発表の仕方なども教えたのでございます。お婆は良く知りませんが、今、総合学習という勉強があると聞いておりますが、ちょうどそんな勉強が図書館で行われていたようでございます。そのとき、礎校の先生方は、子どもたちに「調べるときは一冊の資料に頼るのではなく、いろいろな本を探して調べること」を口をすっぱくして教えていたようでございます。
  本は図書館のほか、クラスごとに学級文庫が備えられておりましたし、巡回文庫といって、学級を回るものもあったのでございます。お婆が感心いたしましたのは、5年生になると製本を習ったのでございます。ですから、子どもたちは自分たちが調べたことを紙に書き、それを自分で編集して、一冊の本を作り上げたものでございました。
  新潟校に学校図書館ができた昭和27年に、新潟大学教育学部を会場として、「図書館職員養成講習」が開かれました。このとき、礎校の中村寛先生が参加し、大学の図書館職員と一緒に勉強したのでございます。さらに、昭和30年には、それまで小・中学校の図書館職員となっていた人たちが、正式に学校司書として採用されたのでございます。この方々は、それぞれの学校で研修に努めたのはもちろんのこと、東洋大学や玉川」大学などの司書の講習を受講するなどして、その後の新潟市の学校図書館を支える大切なお仕事をしたのでございます。
  ちょうどこのころ、礎校を中心にボーイスカウト運動が始まったのでございます。
  それではボーイスカウト新潟第5団の話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。
 
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第七十五話  ボーイスカウト新潟第五団でございます


  それではボーイスカウト新潟第5団の話をいたしましょうか。
  ボーイスカウトを日本に紹介したのは、牧野文部大臣、北条広島高等師範学校長、乃木学習院長の3人でございます。北条校長は、ボーイスカウトのことを「少年武者修行団」と日本語に訳しておられました。昭和24年に日本ボーイスカウト連盟ができ、日本の各地にボーイスカウトが出来始めます。
  新潟の礎の地に、ボーイスカウト新潟第五団が創立いたしましたのは、昭和27年のことでございました。もともと礎地区は、「礎少年団」が大正時代に作られるなど、子どもたちの教育には力を入れていたところでございましたから、勢いというものがあったのでございましょう。
  昭和27年1月15日、礎校の木造校舎の中2階で、新潟第5団の創立式が開かれました。この式に参加した生徒さんの顔は、それはそれは凛々しいものがございました。戦争で負けてしまって、大人の男たちの顔が、優しくともうしましょうか卑屈ともうしましょうか、そんな顔に変わっていくのを見ておりましたが、ここに集まった少年の顔は、清んだ目をもつ「日本」を背負ってくれる顔でございました。
  ボーイスカウト新潟第5団の活躍は目覚ましいものがございました。創立の年の8月は荒川峡でキャンプが行われました。創立の翌年には団旗をつくり、「やたがらす」という自分たちの会報を発刊したりしたものでございます。
  目覚ましいともうせば、新潟もそうでございました。料亭川善の客の多くは、戦後すぐはGHQの方々とそれに関係する官庁の方々でございましたが、朝鮮戦争がおこったことをきっかけとして、たくさんのお客様の利用がございました。韓国への物資の輸送のため、新潟の港もいそがしくなり、東京からのお客様もたくさん新潟へお出でになったからでございます。戦争、敗戦と続く新潟の町にとっては、盆と正月が一緒にきたような景気でございました。
  こんな景気のよい時代に、ボーイスカウト新潟第5団は生まれたのでございます。
  そういえば、このころ新潟に大火があったのでございます。
  それでは、新潟大火のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)