最新更新日:2022/09/13
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「現役からのお便り<男子バスケット部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の男子バスケット部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<男子バスケット部>

 僕はこの中学校に入学してから3年間、バスケットボールに打ち込んできました。嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったことなどたくさん心に残っています。3年前、他の部には目もくれず、迷いもせずに、体育館に飛び込んでいったことが、今でも懐かしく、いい思い出として、心に残っています。
 やがて2年生になり、中体連も終わり、いよいよ新チームを作る時、僕は、部長に選ばれました。不安と嬉しさがまじって複雑な気持ちでした。少しでも強くなろうと、自分なりに頑張ってはみたものの、チームをまとめることは難しく、だいぶ苦労しました、しかし、先生の指導のもと1日1日練習を積重ねる内に、みんなの心が通じ合い、やがて、どこのチームの先生からも、
 「まとまりのある 良いチームだ!」
と、言われるまでになりました。
 大会では良い成績をおさめることは出来ませんでしたが、この3年間やってきたことは無駄ではなかったと思っています。協力する大切さ、友だちの励ましの心強さ、その他にもいろいろなすばらしいことを心の支えにして、これからも頑張っていきたいと思っています。
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 部活動からいろいろなことを学ぶことができるのですね。大切なのは、何事にも一生懸命に取り組むことだと思います。

「現役からのお便り<ソフト部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役のソフト部主将の書いた文が目に止まりました。(残念ながら現在ソフト部はありません)
 以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<ソフト部>

 私達ソフト部は、先生方の厳しいご指導のもとで、ひたすら”勝つ”ことを目標に頑張ってきました。1・2年生とも仲が良いので、協力生はすばらしいと思います。ソフト部の部活動は、とても楽しく感じたものです。時には、野球部の球が頭にぶつかったり、テニス部のボールが時々ならよいものの、何回も転がってきたり・・・。ソフト部独特の返事『オーライ』は、私は好きです。3年生は4人ということで、とてもハンデがあったと思いますが、監督の先生の教えのうまさと、2年生の頑張りのおかげで、中体連では2位、そして県北大会出場することができました。あと1勝すれば県大会への道も開けたのに、残念です。
 私達にとって部活動は、正に青春でした。3年生はもう部活動を引退しましたが、あとに残っている1・2年生に言いたいです。今という時間はもう帰ってきません。1日1日を大切に、部活動もその心構えで頑張ってください。私達が果たせなかった『優勝』も今の1・2年生ならできると思います。部長を中心に何事も強気でぶつかっていってほしいと思います。そして、3年生になってきっと、とてもすばらしい思い出として、返ってくるはずです。
 最後に、浜中ソフト部は永久に不滅です―。
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 残念ながら、現在ソフト部はありませんが、先輩が言っている「今という時間は帰ってこない」「1日1日を大切に」は、後輩達へのメッセージです。大切にしていきたい言葉です。

「現役からのお便り<ブラスバンド部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役のブラスバンド部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<ブラスバンド部>

 僕はブラスバンド部に、この3年間所属していた。その3年間の中には、いろいろな思い出がたくさんある。楽しかったこと、辛かったこと。
 楽しかったことと言えば、いつもの放課後の練習だった。みんなで助け合い、理解できないところがあればお互いに教え合ったり。時々、羽目を外し過ぎて先生に注意を受けたこともあったが、それも一つのいい思い出として残っていく。
 辛かったことと言えば、コンクール前の夏休みの練習だった。毎日あの暑い中、学校に来て練習したことだ。3階の音楽室は非常に暑く、みんなだらけ気味だった。その中で練習の結果完成したコンクール曲。しかし、その結果の成果がむなしく、僕達が学校に入ってきての3年間、コンクールではずっと銀賞という結果に終わってしまった。一度ぐらいは金賞ととって、県大会に出場したかった。
 でも、これから後輩達には頑張ってもらい、僕達の果たせなかった念願の金賞をとって欲しい。
 和枝先生、3年間いろいろ指導してくださって本当にありがとうございました。
 後輩達よ、これから一生懸命練習して、来年こそは金賞をとって県大会に出場してください。
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 先輩たちの念願の金賞受賞と県大会出場を目指して、頑張って欲しいと思います。

「現役からのお便り<バレーボール部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役のバレーボール部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<バレーボール部>

 私達バレー部は、入部してから県大会まであまり休む暇もなく、練習してきました。その練習は厳しくて辛かったものです。けれど、一人も挫折することなく、部活についてきたのは良かったと思います。たまには先生に言われたことが思うようにいかず泣いたこともありました。そんな時にはみんなで励まし合いながら、山口先生についてきました。
 山口先生もどれだけ辛かったことでしょう。1月の県北ジュニアから3月の県大会までは、3年生の担任ともあって忙しい時期でしたが、私達に少しでも教えられるように努力してくれ、また土曜、日曜日はゆっくり休めず、練習したり、練習試合に行ったりして私達につきあってくれました。
 山口先生とバレーボールは、私達を大きく変えてくれました。集中力、精神力、その他言葉で言い表せないたくさんのことを教えてくれました。そのおかげで中体連”優勝”という最高の思い出が作れました。「ピー」と試合終了の笛が鳴った瞬間、今まで苦しい練習に耐えてきて良かったと心の中でだれもがそう思ったことでしょう。県北、そして県大会とまた道はひらけました。私達の最後の県大会で思いっきり泣いたこと忘れません。
 ”やればできる”
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 ”やればできる”〜この言葉をしっかり心に受け止め実践したいものですね。

「現役からのお便り<女子バスケット部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の女子バスケット部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<女子バスケット部>

 ”バスケット”といえばスポーツの中で、もっとも体力のいるものではありますが、この3年間、思えば厳しい練習でした。1日4kmマラソン、先輩の厳しい指導、1年の頃はあまりの辛さに何度も泣いたものです。そんな日々を送っていましたが、楽しかったこと悔しかったこともたくさんあります。『チーム全体が一つにまとまって団結した時の喜び』『3年生最後の大会で、2回戦敗退となってしまった時の悔しさ』どれもこれも今となっては良い思い出です。現在は1、2年生が主体となって部活動に励んでいますが、3年生から後輩に”根性”という言葉を贈りたい。ずぶとい神経、粘り強い精神力を持ってほしい。そして私達に負けないぐらいの立派なチームをあなたたちの力で築き上げていってほしい。そう願っています。頑張れ 後輩!!
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 いろいろな思い出があったのですね。後輩へのエール「根性」「頑張れ 後輩!!」は今の私たちへの励ましの言葉なのかも知れません。

「現役からのお便り<野球部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の野球部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<野球部>

 僕たち18人が、野球部に入部して今まで体験した出来事は、今となっては3年間の大きな思い出となって心の中に刻まれました。
 冬の寒い時、マラソン、腕立て、腹筋などのつらいメニューを部員みんなでこなしたこと。夏の太陽が照りつける暑い時、みんなで気合いを入れながら、打って、走って、守って一つのボールを追いかけたこと。そして、毎日毎日、先生のご指導のもと練習に汗を流したことなどついらい思い出などあった。
 しかし、それが練習試合、公式試合などに勝ったときの、みんなの手をとりあって喜んだこと。しかし、負けたときもあって、それをばねにしてどんどんと成長していったこと。
 僕たち3年最後の中体連のとき、2回戦で敗れてしまって、悔しくて悔しくて、涙を流してしまったことなど、もっともっとたくさんの思い出がある。
 このように、僕たちが3年間野球をやっていろいろな思い出をつくれてよかったと思う。
 後輩の皆さんへ、野球を精一杯頑張ってたくさんのよい思い出をつくってください。
 ご指導くださった先生方、野球部OBの方々、本当にありがとうございました。
 後輩へ一言「試合で笑いたかったら練習で泣け。」

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 いろいろな思い出があったのですね。後輩への一言「試合で笑いたかったら練習で泣け。」は現在の本校の子どもたちへの励ましの言葉なのだと思います。

「小浜中創立四十周年を迎え」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   小浜中創立四十周年を迎え

 ここ、小浜中学校はみなさんもご存じのように、年毎に目覚ましい発展を遂げて参りまして、こんなに嬉しいことはありません。「伸びる」とか「発展する」とかいう言葉は誠に良い響きを持っておりますが、私には全く本中学校のためにある言葉のような気がしてなりません。さらにまた、本日の創立四十周年記念日にあたり、盛大なる記念式典を挙行できますことは、誠に喜びにたえないところであります。
 私達の当時を思い起こしてみる時、学校給食はなく、生徒それぞれが「ベントウ」を持参したものです。冬には冷たくなるので大きな箱を作り、下に火を入れ、上の段の「ベントウ」を入れて温めて食べたことも懐かしい思い出です。また、教室の暖房も大変でした。学校林という山林が今もありますが、当時中学校から4km程の所にあって、イソップ童話の「アリとキリギリス」に出てくる「アリさん」になって、夏の間に生徒全員で背中に薪を背負い、校舎の軒下まで運び、冬に備えるというものでした。
 そういった思い出を胸に、本日の記念式典を迎えまして、ひとしお感慨深い次第でございます。
 当時に比べ、生徒数は少なくなったものの、豪華な鉄筋三階建ての校舎という環境ですばらしい発展を目にし、耳にする現在であります。スポーツは全て上位に位置し、勉強も常に抜群の成績を示し、誠に喜ばしいかぎりであり、心から感謝する次第であります。また本校の教育内容・水準が、隣接市町村をはるかに抜き出ておりますことは、すでに定評のあるところでございます。われわれ父兄としては、心から全幅の信頼を申し上げておりますが、ここに、改めてお礼申し上げます。
 創立四十周年は、誠に記念すべきこととは存じますが、これを一つの節目として、これからの前進こそが真の意味での我が小浜中学校の伝統をつくり上げ、磨き上げる時代なのではないかと思います。
 はなはだ簡単ではございますが、なお一層の努力と勉学をご期待申し上げまして、本日のあいさつとさせていただきます。

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 いろいろな苦労があったのですね。これからも小浜中学校の伝統を築き上げ発展していくためにも、☆前進☆あるのみです。

「中学時代の思い出」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 昭和二十九年度卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   中学時代の思い出

 遠い昔の話だが、私には、二つの大きな思い出があります。その一つは、陸上競技大会で信夫ヶ丘陸上競技場で安達代表として走ったことです。百米一本にしぼっての参加。二百米も好きな種目であったが、当時スポーツの鬼とまでいわれた鈴木三郎校長先生に、百米一本でやれ・・・と毎日放課後スタートの練習。スターティングブロックを裸足で強くけるので足の親指のうらが血で真っ赤になる毎日でした。毎日練習しても十三秒を切ることが出来なかった。スタートダッシュが悪い。百米競走は、スタート一歩目で決まるんだ・・・。どの大会でも、君は、スタートが悪いと注意される毎日でした。
 東達大会で一位、安達大会で一位、県大会で三位、夢であった信夫ヶ丘競技場において走ったときは、最高のよろこびでした。心配されたスタートもフライング寸前セーフ。七〇米位までトップでいったが、最後に追いこまれ三位でした。自分でもおどろくような記録十三.三秒でした。私の中学時代の大きな思い出の一つとして大切に心に、残したいと思います。
 もう一つの思いでは、一年生のときか二年生のときかちょっと忘れましたが、初森の山から割木を背にして運んだ思い出です。細い山道を全校生で運んだ割木は、重かった。今、思い出してみると寒い冬のまきストーブで暖をとったんだと思います。鬼満(悦)先生と競争した思い出もあります。先生が三束なら私が四束にすると、先生は五束にする。私が六束にすると・・・先生は七束。鬼満(悦)先生、今でも思い出にあるだろうか?しかし、最後に、鬼満(悦)先生に負けた。
 鬼満(悦)先生に力くらべは負けましたが、大きな思い出となっております。顔一面に、あせを光らせ歯をくいしばって頑張った苦労も、社会で出てからも苦しい思い出は必ず今でいう「人間造り」とつながり将来むくいられるとでも当時の先生の話には、あったんだと思います。
 同級生の皆さん、日本の北から南の端にはなれていても同窓生の心は、結ばれておりますし、出発点は、小浜中学校です。下手ながら同窓生の皆さんと遠かりし中学時代を思い出して、文章にしましたが、皆さんに「あ・・・そんな事もあったっけなあ。」と思い出してもらえれば幸いである。

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 先輩方には、今では考えられないよう大変な苦労があったのですね。素晴らしい先輩方です。

「我等の頃のPTA時代を顧みて」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   我等の頃のPTA時代を顧みて

 小生は尋常小学校最後の「ハナ・ハト・マメ・マス」の読本で一年生に入学しました。次の一年生からは「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。」の色刷りの読本でした。小学校入学時から旧制達中の五年卒業まで、戦争に次ぐ戦争で学校生活を過ごし、終戦の月日が運命の境で、八月十五日の終戦が遅れれば命は沖縄特攻で「トウー」に無かった筈でした。幸か不幸か、現在、未だに生き長らえています。あれから四十二年の歳月は流れ、終戦後は「特攻の生き残り」という事で、三年位は要注意人物として監視されているなと感じました。
 その後、その感じも薄らぎましたが、今浜中四十年の同窓会誌を発刊するとの報を受け、寄稿依頼され有難く思っております。小生がPTAに出始めたのは、子供達が中学校に入学してからであり、小学校の時は殆ど出席せず家内任せでした。PTA会長の職を遂行出来たのも、当時の役員の方々の並々ならぬ協力があったからこそ出来たのであり、当時の役員の方々を列挙すると大変な数になりますので割愛させて頂きますが、その方々には改めて感謝の気持ちで一杯です。旧制中学時代よりも、浜中PTA当時の方が思い出が多く且強烈に残っています。今当時を振り返り、知る人ぞ知る、いろんな事がありました。裏話も多く口外する事は出来ませんが、特に思い出なのはブラスバンドの楽器購入の資金作りに、先生・生徒・PTAの会員が一緒になり「フキ取り」を行い、その代金と同窓会からの一部の協賛金を加え、購入の基とした事、又当時の先生方のストライキに依る宿直代行を、役員で割り振って宿直を行った事、ピアノの問題等々。部活の為に体育等後援会を作ったり、新入生からは長髪を禁止し、息子からも猛反対を受けたり、「一に学力、二に学力、三四がなくて五に学力。」ということで、有り余る生徒の精力を部活で発散させながら、学力向上一途に「ツッ走った」事等、当時の役員の方々の協力には万腔の感謝の念で一杯です。当時は日教組運動の盛んな頃で先生方の意志の疎通の事もありましたが、生徒諸君の非行等の問題は有りませんでした。しかし、今となっては良きにつけ悪しきにつけても良い思い出であり、永遠に浜中が優秀校として発展し続けることを祈願しております。
 古き良き時代を顧みながら、改めて当時の役員の方々に感謝申し上げますと共に、浜中のより一層の発展をお祈り申し上げます。 

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 いろいろな苦労があったのですね。

「外から見た小浜中学校の歩み」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代校長が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   外から見た小浜中学校の歩み

 私が初めて中学校の教員として教壇に立ったのは、昭和25年である。最初の勤務校は岳下中学校。当時、未だ戦争の傷跡が癒えず、物資食料など極端に不足しており、運動具などもなかなか手に入らず、しかも粗悪であった。そうした中にあっても生徒のスポーツへの意欲は旺盛であった。その頃、安達郡には26の中学校があった。学校数が多いことから、中体連大会や各種コンテストに入賞することなど容易なことではなかった。しかも郡大会に出場するためには、方部大会という関門を通り越さなければならなかった。従って安達郡を制覇するということが、各校の監督や選手達にとって見果てぬ夢であった。
 こうした状況の中、ひときわ光っていたのは小浜中学校チームであった。文字通り小浜中チームは郡大会の常連であった。当時、郡大会の会場は例年二本松であった。小浜中チームが会場に現れると、一種独特の威圧感があった。身長は概ね粒が小さかったが、それにもかかわらず小浜中のユニフォーム姿を見ると皆の視線が集まった。また、抽選が行われ、小浜中とぶつかると、皆一様に嫌な顔をしたものである。私は今でも小浜中のプレーの姿を覚えている。決してスマートなチームではなかったが、粘り強くてしぶとくて、監督の指示通り一糸乱れず動いていた。また、基本には極めて忠実であったことも、部外者であった私達の良いお手本であった。
 野球ばかりでなく、ソフトも男子テニスもバレーもいいチームであった。特に、ソフトチームの強さは群を抜いていた。押しても引いても動かない岩のような重さを持っていた。スポーツは同情されるようになったらおしまいである。小浜中は真面目なチームカラーであったが憎まれることが多かった。強かったからである。郡七連覇の快挙も決して偶然ではなかったのだ。
 昭和33年、私は住み慣れた岳下中から白岩中に転任した。白岩では、野球部・ソフト部を連れて、自転車でよく小浜中に練習試合にきたものだ。やられて生徒と一緒に成田の道をとぼとぼ帰って行った。「強いなあ」と云うのが実感であったし、僅差の接戦をした後など満足であった。
 去年(昭和61年)私は縁あって小浜中にお世話になることになった。夢よもう一度!「君達の先輩は強かった。君達もその強さ逞しさを見習ってほしい。」私はそう云い続けて生徒を激励している。嬉しいことに眠っていた小浜魂がやっと目を覚ましたようだ。勝つ味と喜びを覚えてきたようだ。勉強もぐんぐん力をつけてきている。もう一歩だ。もう一息だ。
 生徒が奮い立つ陰には、小浜中学校40年の歴史と伝統の重みがある。このどっしりした重みを支えに生徒達は、弛みない歩みを続けていくと信じている。
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 今後も小浜中のよき伝統を継承し、子どもたちが弛みない歩みを続けられるよう指導・支援していきたいと思います。

「追憶」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   追憶

 昭和27年4月、晴れて小浜中学校に入学した。入学式は、体育館がなく、教室の境の戸を外し、机、椅子を廊下に出しての入学式であった。卒業式ももちろん同じであった。朝の会は、校庭でやり、雨の日は休みであり、この繰返しが2年続いた。
 27年は、福島国体開催の年でもあり、小浜中から女子の4百メートルリレーが出場した記憶がある。
 冬の暖房は薪ストーブで、薪は夏のうちに、山より切り出された松を背で運び、又、リヤカーで運び、クラス毎に積重ね冬に備える。
 体育館も、校歌も、なかった小浜中に、29年、待ちに待ったその時が来た。しかし、体育館の基礎工事に、何と男子生徒が、松杭打のヨイトマケの作業を、体育の時間にさせられた事、今では考えられない事である。同年に、小浜中校歌が、作詞源後三郎、作曲古関裕而両先生で出来上がった。
 中学校生活3年間のうちに、数多くの思い出があったが、30余年過ぎた今でも、同級会等で顔を合わせると走馬燈のように甦ってきます。
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 小浜中の先輩方は、たいへん苦労して伝統を築き上げてきたんですね。

「PTAの始まり?」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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 日本が太平洋戦争に敗れ、戦争終結したのが昭和二十年である。当時国内は戦いによって徹底的に痛手を受け、国土は荒廃し物資は欠乏し、特に食糧難は深刻で吾々は山野の草や根を食べて飢えをしのぐ日々であった。そういったさなか、昭和二十二年五月一日、学制改革が施行され、小浜中学校が生まれたのである。
 さて、学校が創立されたといっても、校舎があるわけでなく、小学校の中に中学校が割り込んだ形で、云ってみれば、一つの学校の中に二つの学校が同居したことになり、先生も生徒もさぞ不自由な思いをしたことであったろう。また混乱と欠乏の中にあって、満足な教具もなく、学用品にも事欠く苦難の日々であった。
 私が初代PTA会長に就任したのは、開校翌年の昭和二十三年である。PTAについて、こんなエピソードがある。初めて耳にするPTAという言葉に人々は馴染めず、消毒薬のDDTと勘違いした人もあったという笑えない話もある。このため、PTAの活動や役割についてナトコ(アメリカから払い下げを受けた映写機)持参で部落を巡回しPRに努めたこともあった。当時のPTA会費は月5銭で、今から思うとやはり四十年の歳月の隔たりを感ぜざるを得ない。
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 PTAの始まりとその当時の苦労がよくわかります。

2つの『小浜中学校応援歌』

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 本校には、下記のように2つの応援歌(作詞:大内 貞、作曲:松本正二)があります。他の中学校には、なかなか見られない伝統的なものです。歌詞の内容をみると、自然と元気と勇気が出てきます。(笑顔)

【小浜中学校応援歌1(燦たる栄光)】

(力強く)
一 松風はかぐわしくして安達嶺に雲はるかなり
  隈東の丘につどえる若人の意気いや高く
  たぎり立つ赤き血潮鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光

二 ああここに時こそ得たりさし示せ試練の業を
  堂々の覇権をきそう若人の意気いや高く
  きょうなる正義の心鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光


【小浜中学校応援歌2 凱歌】

(よろこびに満ちて)
一 ひたすら力尽くして今や栄冠は
  我らにほほえみグランドは夕映を染めぬ

二 選ばれし若人達は今や栄光に
  酔いつつ泣きてその面に入り日ぞ染めぬ

三 里人は心まつらん今や友ひとに
  たたえられつ さわたりの灯を見ん

校門近くの歌碑〜「校歌」

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 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立され、本校校歌は、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定されました。校歌の作詞者は源後三郎氏、作曲は古関裕而氏です。
 校門近くに、歌碑「校歌」(小浜中学校新築記念 環境施設協力会:昭和54年11月完成)があります。

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   安達太良山の
   けだきすがた
   はるかに仰ぐ
   平和の里に
   希望ゆたかに
   学び舎たてり
   これぞわれらの
   小浜中学

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 校歌の1番の歌詞ですが、この歌詞だけを見ても、豊かな大自然に囲まれた中で、子どもたちが未来に向かって大志を抱きながらすくすく成長する姿が想像できます。(笑顔)

「尽人事待天命」(小杉隆文文部大臣揮毫)

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 校長室内に、小杉隆文文部大臣揮毫の「尽人事待天命」という言葉が掲げられています。「尽人事待天命」は「人事を尽くして天命を待つ」と読みます。意味は、やるべきことをやったら後は天に任せるということです。
 言葉の由来は、胡寅(こいん)という人の書いた「読史管見」に有名な「人事を尽くして天命を待つ(盡人事待天命・盡人事而待天命 )」です。(出典は読史管見)
 子どもも大人も人の生き方として、とても考えさせられる言葉だと思います。
 今やるべき事をしっかりやることが大切なのだと思います。

「人を先に私を後に」(坂田道太文部大臣揮毫)

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 校長室内に、坂田道太文部大臣揮毫の「人を先に私を後に」という言葉が掲げられています。人の生き方として、とても考えさせられる言葉です。
 坂田道太さんには、次のようなエピソードがあります。
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 政界引退後の2000年5月14日朝放送されたNHKの『日曜討論 森総理大臣に問う』の中で、森喜朗首相が「滅私奉公」という政治姿勢に触れた際、「亡くなられた坂田さんから『人を先に、私はあとに』という言葉の方が分かりがいいよと言われました」という趣旨のことを述べました。
 番組を見ていた坂田さんの夫人(三知世さん)によると、坂田さんは席をはずしていて「あなた、死んだわよ」と森首相発言のことを話すと、「そうか」と笑って受け流したといいます。(後日森首相から釈明がありました。坂田さんの元秘書だった元衆院議員渡瀬憲明さんの死去と勘違いしたということです)
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校門近くの石碑〜「創造」

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 本校の教育目標は、『創造・気迫・礼儀』です。
 この教育目標は、木造校舎から新校舎となった昭和54年度に策定されたものです。以来現在まで、社会は大きく変化し、それに対応し教育界も様々な変革がなされていますが、『創造・気迫・礼儀』から成る本校の教育目標は、その意味内容に若干の変化はあるものの引き継がれてきました。そのことは、生徒や保護者、地域社会及び教職員の求める教育の基本に通じるものが流れているからだと考えられます。
 現在では、本校の「校訓・信条」的な言葉として、在校生はもとより、卒業生や地域にもしっかりと根をおろし、多くの人に馴れ親しまれています。
 校門近くにいくつかの石碑がありますが、その一つに写真のような「創造」と刻印された石碑があります。この石碑は昭和43年度卒業生一同様が寄贈したものです。
 「創造」の字は、当時の文部大臣灘尾弘吉氏のようです。
 小浜中学校の重厚な歴史と伝統を感じます。

小浜の偕楽園

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 本校の校門を入った付近は、PTAの奉仕作業などできれいに整美されており、四季折々でいろいろな雰囲気を楽しむことができます。雰囲気がまるで偕楽園(!?)のようです。
 毎日出勤すると目にする光景にいつも心が癒されます。
 正に☆小浜の偕楽園☆でしょうか。(笑顔)

土手の「浜」「中」

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 本校の校舎と校庭の間の土手に、植込み木で「浜」「中」という文字が見えます。校庭東側から校舎を望むと、土手の大きな「浜」「中」の文字の上に校舎が堂々とそびえています。歴史と伝統の重みを感じます。

感嘆符 ☆昭和61年度卒業生同級会案内

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 本校の昭和61年度卒業生(昭和62年3月卒業生)による同級会が行なわれます。今回の同級会は男の初老厄払い(としなおし)を兼ねて行われるものです。
 現在のところ卒業生82名中、50名前後の参加の予定です。詳細は次のようになります。保護者の皆様にも該当される方がおられると思いますので、よろしくお願いいたします。

1 日時  平成24年1月2日(月) 
      厄払い 11:00、同級会12:00
2 場所  厄払い−塩松神社、同級会−浜の湯(鳥居町)
3 会費  男 10000円、女 8000円
4 代表  移川 直弥 様(または、学校まで)

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
校外行事
3/16 ボランティア活動
その他
3/16 県立高等学校3期選抜出願書類受付最終日
3/17 彼岸入り
3/19 県立高等学校3期選抜出願先変更
3/20 春分の日
春分
3/22 県立高等学校3期選抜面接等実施日

学校だより「おばま」

学校からのお知らせ

各種情報

進路関係

同窓会関係

二本松市立小浜中学校
〒964-0313
住所:福島県二本松市小浜字反町411
TEL:0243-55-2236