最新更新日:2022/09/13 | |
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「爽やかなあいさつに思う」(創立50周年記念誌より)
学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 爽やかなあいさつに思う 私は、「挨拶」よりも、この「あいさつ」がすきです。挨拶と書くとどこか堅苦しくて、儀礼的に感じられあまり好きではありません。 あいさつは、より自然で気持ちのいい感じがします。その気持ちのいいあいさつをしてくれる中学生がいます。 毎朝私が、仕事に行くときにすれ違う女の子ですがいつも『おはようございます』とあいさつをしてくれます。 このたった一言のあいさつなのですが、その一言がとてもすがすがしく、朝のボーとした頭に爽やかな風が吹いたように心地よく、その日一日が気持ちよく過ごせるような気分にさせてくれます。 これが、本当のあいさつなのだろうと、いつも感心させられます。「人に会ったら挨拶をしなさい」と教えられてするのではなく、誰かと会ったときに自然と口にするのが本来のあいさつなのではないのかと思うのです。 このたった一言のあいさつですが、なかなか言えないというのは寂しいことだと思います。 このあいさつのできる小浜の子供を大切にし、その輪を大きく広めていきたい。 それには、私たち同窓生が、いや大人たちが手本となり、そうした環境をつくって上げなくてはいけないと思うのです。、 私たちも、小浜の子供だったのですから。 _________________________________ あいさつは、コミュニケーションの基本です。小浜中学校では、毎朝の「あいさつ運動」が伝統として継承されています。 「少しは大人に・・・」(創立50周年記念誌より)同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 少しは大人に・・・ 平成5年3月12日(金)小浜中学校体育館。 その日は大変穏やかな暖かい1日になりました。 『卒業生入場!』 ブラスバンドの演奏にあわせて整然と子供達が入場してきます。私の第2子長男も含まれています。 1人1人の名前が呼ばれ登壇し、校長先生より卒業証書が渡されています。 「頭に浮かびます。」 私の恩師佐久間先生も今日この頃・・・ 学年主任と聞いておりましたので名前は呼ばないでしょうが、子供達1人1人の顔と思い出を確認しているのでは・・・?。又、佐久間先生にとっては定年という人生の区切りでもある、この年の卒業式は感慨深いものがあるのでは・・・と。 卒業式も感動のうちに終了し在校生、父兄が校門に並び見送りです。「クライマックス」です。 すがすがしい顔、底抜けに明るい顔、照れくさい顔、涙ぐんでる顔、大泣き顔・・・顔・・・顔、私から見れば満足感があり、どの目も美しく光っていました。小浜中での思い出を心に刻み、ひとつの糧として1歩1歩進んでほしいものだと願いながら「頑張れよ」「おめでとう」の声をかけました。 25年前の自分の姿を浮かべながら・・・。 人生の1番多感な時に佐久間先生に出会いました。生涯1教師、生徒とのふれあいが大事、一見頑固で要領が悪いが納得する人生を・・・。「虎死して皮残し、人死して・・・」のことわざがありますが『精一杯の人生』を教えられました。 毎日が仕事が忙しく、貴重な1日でした。我が子を含めた子供達の成長の早さを感じました。 『子供達と先生方』『佐久間先生』に乾盃! 『浜中益々発展にバンザイ』 _________________________________ 今年度の卒業生は40名で、今までの卒業生は計7,894名となります。小浜中学校の歴史と伝統を感じます。 「中学校当時の思い出」(創立50周年記念誌より)同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 中学校当時の思い出 私が小浜中学校を卒業したのは、戦後のベビーブームの中に生まれた1人で、1クラス45人位ずつで各学年とも5クラス、生徒総数も7百人近く在学していたと思います。 当時の面影を残す校舎は、今では地蔵様の休憩所に使われている建物だけで、あとは近代的な内外とも立派な校舎に変わりました。 校庭も今より狭く、各クラブで一斉に使う時などは、テニスやバレーコートに野球部のボールが時々入り込んで中断することがたびたびありましたが、大きなケガもなく仲良く使っていました。 当時の先生方は、個性が強く懐かしい思い出の先生がたくさんおりました。スポーツに熱心なファイト一杯の近藤先生、いつも口癖の「努力と経験」を強調して楽しい授業の数学の斎藤先生、体は小さいが大きい声で歌っていた音楽の君子先生、その他の先生も特徴のある個性豊かな方々ばかりでした。 現在の子供は、本当に幸福な時代に生まれたと思います。しかし、今も昔もその時代時代に学び受けたことはそう変わりないのではないかと思います。小浜中出身者としての誇りをもち、子供のころに学んだことの思い出の数々、それらを生涯の心の支えとして、大いに活躍されることを願います。 _________________________________ 時代がどんなに変わろうとも、命を大切にすることや相手を思いやることなど、不易なことはたくさんあります。これからも大切な不易なことは継承していきたいと思います。 「40年前に戻って」(創立50周年記念誌より)同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 40年前に戻って 創立50周年を迎えるにあたり、40年前に戻ってみようと思います。 昭和32年の春、中学1年生になり毎日を楽しく過ごしたように思われます。 学校行事で、スポーツ関係ですとクラス対抗のソフトボール大会があり、各クラスとも昼休みの時間は、校庭でソフトの練習をしていました。大会のルールで、上級生との対抗には、ハンディがあり私達は優勝候補の3年生と決勝戦をやり、ハンディのおかげで優勝したことが思い出されます。 校内マラソン大会では、上級生にはかないませんがそれでも我がクラスの橋本君は、2年生や3年生にまじって上位入賞し皆で喜びあいました。 また、運動会の仮装行列では、全員で闘牛士をやったことや校内合唱コンクールでは、クラス毎にクラスの歌を作詞作曲して発表したことなど懐かしく思い出されます。 校内一斉テストでは、毎回50番まで総合点数と氏名が各学年の廊下に張り出されましたが2年か3年生になった時、総合点と順位だけで氏名の発表はなくなり話題もややうすれてきました。 フキ取りでは、何時でもクラスの本間さんが、リヤカーに積み運んでくるのでクラスの仲間は、どうしてこんなに取れるのか不思議でした。 当時、フキやイナゴ取りの収益は、部活動の運営費になるので各部が予算を出していかに多く獲得するか代表者によって、獲得合戦がなされました。こうした、奉仕作業を勉強しているより好きな仲間もおりました。 2年生の時、担任の佐藤先生が、校舎裏のゴミ捨て場をどうにかしようと提案され皆で土を運んで畑をつくり、サツモ芋の苗を持ち寄って植え収穫した芋を皆で食べたり、小麦をつくりそれをパンと交換したことなど昨日のように次から次へと思い出され、すっかり中学校時代に戻ってしまいました。 楽しい思い出がいっぱいの我が母校、小浜中学校が今後も、後輩達がよい学舎として発展し前進することを願っております。 _________________________________ 先輩方は、今では考えられないような大変な苦労と努力をしてきたのですね。 「野球と蕗とりの思い出」(創立50周年記念誌より)同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 野球と蕗とりの思い出 小浜中の野球と言えば、佐々木先生を、当時校長先生であった鈴木先生が惚れこんで野球部の顧問として安達商より迎えて3年目で私達は、東達大会優勝、郡大会優勝、県北大会3位という成績を収めることができた。 当時を振り返ると県北大会は信夫ヶ丘球場で開催され私は、レフト前とライト前に2安打した記憶があり、あの有名な広い運動場で試合をしたことが、今でも信じられない。 夏休みは学校で合宿が行われ、ドンブリ飯でおかずもなく食べたことやある時は、雨降りの大会で、本多君が目の上にデットボールを受け大きな青たんこぶをつくり、目がかすんで見えなくても最後までがんばった姿は今でも忘れることができない。野球を通しても、又人生も同じだと思うが、最後までがんばる姿が人間として最も美しいと感じたことか。 毎日の練習も厳しく佐々木先生に「お前は足が遅いからグラウンドをもう1周回ってこい」等と言われたことも思い出される。 又、もう一つの思い出は、学校行事の1つであった蕗とりの思い出である。父の生まれた家に泊まりがけで蕗とりに行き、自分で取った蕗を何回も休み休み運んだ事。自分でも驚いているが小浜中の町内の生徒の中で1番量を取ったことである。あの苦しい経験や情熱を燃やした頃を思う時、何事においても努力しなければとつくづく思う。 _________________________________ 「努力は裏切らない」という言葉を思い出しました。努力が人を成長させるのですね。 |
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