最新更新日:2022/09/13
本日:count up18
昨日:20
総数:239725
ホームページを移転いたします。二本松市の新しいホームページhttps://www.city.nihonmatsu.lg.jp/school/page/page000025.htmlへご移動をお願いします。

「中学校生活」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   中学校生活

 「中学校生活」、私はいろいろなことを学んできた。この3年間というものは、とても短く感じられた。
 もしも「楽しかったことを一つだけ言ってください。」と質問されたとしたら、何と答えてよいのか分からない。愉快な友だち、やさしい友だちに囲まれて、すべてが楽しかった。時には悲しいこともあったが、いつも友達が私を助けてくれた。友達が悩んでいれば、私も友達と一緒にいろいろと考えた。
 ”友達は一番大切なもの”私はそう思い、友情を大切にしてきた。
 今、卒業を前にして、友達の顔を見ると一人一人に対して一つ一つ思い出が懐かしくよみがえってくる。
 「中学校生活」、この5字の中に、懐かしい思い出が沢山含まれている。進学する友達、就職する友達、それぞれ進路は違っても、私はこの思い出をいつまでも大切に心の中に残しておきたい。
  THE★END
 ”さようなら”は
 ◇また逢いましょう◇
  という言葉の代名詞
 義務の重荷から私達を
 解き放すことのできるのは
 心にやましいところのない
 実行だけである
     ゲーテ
_________________________________

「ぼくの信念」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   ぼくの信念

 大人によく、「勉強は誰のためにするのか。」と聞かれたことがあった。ぼくは、「自分のためにやるのだ。」といつも通り一遍のことしか言えなかった。しかし、この言葉の中には重大な要素が含まれていることをきみは知っているか。ぼくは、あまりよく知らない。けれども、少しは知っていると思う。それは、「自分のためにやる。」ということは、人生を通してみると、よい学校に入り、よい会社でよい月給をもらい、よい退職金をもらうためなのだ。それではあまりに、外面的な様子しか捉えていない。本当の中身は、勉強によって最後まで頑張り通す、やり通すといった根性が養われるのではないか。と、ぼくは思う。
 その根性を、ぼくは、中学3年間で、百くらいは、身につけたと思う。それを土台にして百の根性を作り上げていかなければならない。
 ぼくの信念には、まだまだ考えが足りないと思うが、人生長いのだから、ゆっくり考えていこうと思う。しかし、これだけは本当のことなのだ。最後までやり通す、頑張り通せば、どんな事にも成功するのだ。絶対そうだ。そうでなければならないのだ。
_________________________________

「これでいいのか」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   これでいいのか

 「百姓ではもうやっていけない」
 よく耳にする。嫌なことばだ。
 日本の国に、しかも農業国といわれた日本の国に、もし米を作る人がいなくなったら―。不安な気持ちが僕の心をゆさぶる。
 僕も長男
 「何を迷う。米作りをやったらいいじゃないか。」
 僕の心のどこかでつぶやく。
 すぐ、そのあとから冬期のあのみじめな出かせぎの肉親の顔が僕の心を責める。
 いったい僕は、どうしたよいのだ。
 悩みの末に打ち立てた僕の進路の道は、「米作り」「出かせぎ」から逃れた工業の道。
 何かすっきりしない気持ち。
 これでいいのか。
_________________________________

「私の部落」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   私の部落

 私の住んでいる四本松は、岩代町と東和町の境にある小さな部落です。私の家の前を流れる川は、口太川と言って、その川が岩代町と東和町とを、区別する境界線の役目をしています。東和町が近いせいか、私たちの部落の人たちは、買物をするにも二本松へと、バスに乗る人が多くなっています。そのためか、小浜とを結ぶバスには、ほとんど乗客がありません。今年、この小さな部落の城跡に、昔の物と見られる、さらに燃え残りの柱などが、発掘されました。私は、歴史上から見たこの部落の過去を知り、これは、喜ばしいことだと思いました。家の人の言うことには、この発掘物は、戦国時代の物だと言うことです。が、はっきりとしたことは、私の耳に入らないままでした。城跡といっても今は、桑畑です。私は、この桑畑が非常に残念です。なぜ部落の人たちは、城跡を大事にしてくれなかったのだろうか。私は、いずれこの土地を「ふるさと」と呼ぶものです。その部落の象徴とすべき城跡を、大切に保護し続けてほしいと、願っています。
_________________________________

「わが郷土」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   わが郷土

 私は福島県安達郡岩代町の中にある「下折長」という所を紹介しましょう。
 この下折長は昔、長折だけであったが、明治の初め頃、上折長と下折長に分かれたそうです。ここは農業を中心とした、純農業地帯で、田が少なかったので養蚕を主とし、絹糸をとり、それを打ったりし、炭をたき、一部では紙の原料となる、こうずの木を煮て皮をむき、それを一里半もある上川崎に背負っていって、売ってきたこともあったそうです。
 しかし、今は兼業農家が大部分をしめるようになり、夏には養蚕やたばこの他に、キュウリを栽培する家も増えてきて、少しずつではあるが、この下折長も、経済的に困らなくなってきている。また下折長付近には大正12年頃、発電所ができ、早くから電気が通るようになった。
 ランプから電気になったときの喜びを、祖母はよく私たちに、語って聞かせてくれる。こうして今日のように発展した反面には、すたれた慣習などがある。下折長にはずっと昔安土桃山時代頃から諏訪神社があり、その祭礼として三匹獅子が踊り、横笛・太鼓などの楽器で演奏されるもので、その家の長男のみが踊ることができるものである。だが、その祭りの日は、初めは旧の7月27日になった。昔は年に2回も祭りがあったそうだ。そしてどの部落でも獅子を出し全部で、5組も出そろい、豊年を祝い、部落の悪払いをし、客を呼んで、にぎやかに過ごしたそうだ。が、現在では2組ほどしか出なくなった。残りの2組が出なくなったのは、人数が少なくなりあとを継ぐ人がいなくなってしまったからだそうだ。
 私は本当に、残念な話だと思う。と同時に、私たちの世代で、なくすことなく、今後いつまでも残しておきたいと、強く願っている。
_________________________________

「故郷」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   故郷

 山と山の間に小さな町がある
 そこには一本の道がある
 それは細く長い道
 そのそばには赤い屋根
 青い屋根の家々がある
 そして
 空は澄み渡り
 山では鳥がさえずる
 『春』になると
 野の草花が咲き
 香りをまき散らす
 『夏』には
 うちわを持ってホタル取りに
 歌を歌いながら行く
 『秋』には
 山が色つき葉が落ちる
 さびしさと悲しさに満ちる
 『冬』になると
 裸だった木々が
 白い雪の花を咲かせ
 一面を銀色の世界へともなっていく
 たくわんのにおい
 草のすっぱいにおい
 くだものの甘い香りが
 漂っている所
 畳のにおい
 土のにおい
 木のにおいが
 いっぱいの所が故郷
 わたしの故郷
_________________________________

「卒業するに当たって」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   卒業するに当たって

 今、私は義務教育9ヶ年、中学校生活3ヶ年、という課程を修了するところです。私は、この長いようで短かった学校生活を振り返り、いったいこの期間に私は何を学び、そして何を学び得たかという疑惑の目を持つようになりました。この問いに対し、答えが分かりません。いや、分からないのが当然だと思っています。この問いの答えはこれから先、数年後、何十年後かの、自分の行動や生活によって知ることができるし、年月が過ぎ去る毎に、この問いの答えに近づき、そして、この答えがはっきりとした姿、形になっていくのだと確信しています。
 近頃、私の耳には「卒業」という言葉がやけに多く聞かれます。私は興味心にもかられ、この意味を辞典を持ち出し調べたら、次のように書かれていました。(学校の教育などの課程を終えること)私はこの終えるという言葉に疑問を感じています。私の考えはおよそ次のようなものです。「卒業」とは、終了することではなく、これから先の新しい世界への旅立ち、出発点になるのではないだろうかという考えです。
 そして今、私たちは、いたずらや何か失敗を起こしては、怒られまた、注意をされたりして、よい助言をくださった先生や、共に学び、共に遊んだよき友、あの古き良き校舎に私たちは、さようならを告げようとしている。この3年間中学校で学んだいろいろなことを土台として、これからの新しい社会に進んで行こうとしている、私たち。たとえ、一人一人の道は違っていても、ひな鳥が初めて大空へ羽ばたく時、翼を一生懸命動かすように、今、私たちは、小さい一歩ではあるが、後には大きな一歩になるであろう第一歩を、大きく、そして力強く歩もうとしている。私たちが悩み苦しんでいる時、励まし元気づけてくれた、両親や先生たち。どうにか私たちは、実社会の出発点にたどり着いたようです。今、卒業を間近に控え、私たちは、希望に満ちあふれています。先生、どうかこれからも、私たちを見守っていてください。
_________________________________

「修学旅行」(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   修学旅行

 いよいよ待ちに待った修学旅行。いつになく家を出るときから、そわそわして落ち着かなかった。
 学校発7時、郡山で特急ひばり2号に乗った。中からのながめは私の地方のような山村から開けた都市へと変わっていった。
 11時40分、上野に着く。上野付近だけでも福島とは違い、高層ビル、そして多くの人、あた限りなく続く車の行列から、ここが東京なんだという実感がわいてきた。
 最初に見学したのは、羽田空港である。ゴオーという激しい音が聞こえた。空港内には大型ジェット機とかジャンボジェット機など大きな飛行機があった。ここですまして記念写真を撮る。
 5時、三浦ケープシャトウに着く。1泊目の宿である。嬉しさの余り友だちと夜中まで騒いだ。
 2日目、朝食の前に海岸を散歩した。朝のさわやかな潮風が肌にしみて気持ちがよかった。
 慌ただしい朝食を済ませ、バスは宿をあとにして鎌倉へと出発した。
 鎌倉の大仏の大きさは日本第2で、慈悲深い顔容のバランスのよさで知られているという。
 次に見学したのは白糸の滝である。絶壁を数千条の銀糸が落ちてくるような滝水であった。そして岩石ででこぼこしているので、転びそうになったり、滝水がしぶきををあげ、体に押しかかってくるようだった。
 ここで昼食をしていると、数人の先輩が私たちにあいさつに来てくれた。先輩の紹介や話をしているうちに出発の時間が来てしまったので、別れを惜しみながらも、白糸の滝をあとにして富士スバルランドに入っていった。入るにつれて両端が赤松の並木が続き、その間にはつつじなどの高山植物が咲き乱れていた。3合目辺りになると気温が下がり、窓から入ってくる風も冷たくなった。4合目になると果てしなく広い雲海がひらけた。遠くには、雲海を望むように日本アルプスが見えた。この辺りの景色だけでも「わぁ、きれい」と私たちは目を見張った。
 間もなく5合目に着いた。「すごい」の一声だった。雪解けした所が紺色に、雪が残っている所は白というように紺と白で形取られた鮮やかな富士山が目の前に見られた。この雄大な日本一の山に私たちは今登っているんだという喜びに、胸がいっぱいだった。
 みやげ売り場では、空気の缶詰など珍しい物がいっぱいだった。
 私たちは、まだ富士山の素晴らしさを胸に、スバルラインをハイランドホテルへと下った。
 宿に着くと直ぐ、遊園地で遊んだ。ジェットコースターやスリラー館に入ったが、話に聞いていたより恐くなく、むしろ面白かった。
 3日目、「早く起きて見てごらん」という声に、目を覚ました。富士山が見えるというのだ。窓に寄ると、昨日登った富士山が、雲一つない朝日の輝く中に、絵に描いたような素晴らしい姿を見せていた。何という素晴らしい富士だろう。
 朝食を済ませバスに乗る。いよいよ修学旅行も終わりに近づく。
 山中湖、東京タワーと見学を終えて、特急会津号に乗った。疲れが出たのか、特急の中でうとうとしてしまった。
 長かったようであっという間に過ぎてしまった3日間の旅・・・。その中でも一番印象的だった富士の山。この数々の素晴らしい思い出を私は一生忘れることができないでしょう。
_________________________________

「わが郷土」(小浜町)(昭和47年度卒業文集より)

画像1 画像1 画像2 画像2
 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
_________________________________

   「わが郷土」(小浜町)

 昔から、小浜には人が住んでいたらしい。
 300年前のころの「上だけ」、今の成田の競石に、伊達輝宗が住んでいた。そして「下だけ」、今の小学校のあたりに、輝宗の子ども正宗が住んでいて、そのころの二本松城の畠山氏より力があったという。それから少したった明治20年頃、今の小浜町は、下長折村、上長折村、成田村、西勝田村、小浜村と5つの村にわかれていた。
 そして、明治30年頃、5つの村が、合併したという。そのころの産物というのは、木や養蚕が特にさかんであった。今はそれに加わってたばこやいろいろな産物が作られるようになった。
 また、公害問題などとさわがれている今、この小浜は、空気はいいし、公害や排気ガスなどがなく、環境にめぐまれている。これこそ都会の人々が求めている、ふるさとではなかろうか。それにともなって、この小浜を別荘の町にしたいと思っている。
_________________________________
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
学校行事
4/6 着任式・始業式・入学式
4/9 対面式、身体測定、給食開始
4/10 修学旅行結団式、家庭訪問
4/11 家庭訪問
4/12 家庭訪問
PTA行事
4/6 新入生保護者会、PTA役員会・引継会
校外行事
4/11 修学旅行(1日目)
4/12 修学旅行(2日目)
その他
4/6 春の交通安全運動
4/7 春の交通安全運動
4/8 春の交通安全運動
4/9 春の交通安全運動
4/10 春の交通安全運動
4/11 春の交通安全運動
4/12 春の交通安全運動
部活動関係
4/7 ウィナー杯東北中学選抜ソフトテニス大会
4/8 ウィナー杯東北中学選抜ソフトテニス大会

学校だより「おばま」

学校からのお知らせ

各種情報

同窓会関係

スクールサポーターからのお知らせ

二本松市立小浜中学校
〒964-0313
住所:福島県二本松市小浜字反町411
TEL:0243-55-2236