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最新更新日:2022/09/13 |
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体育館内に大きく響きわたる校歌♪(笑顔)![]() ![]() 本日行われた朝会でもみんなで校歌を歌い、その校歌は体育館内に大きく響きわたっていました♪(笑顔) _________________________________ ◇小浜中学校校歌制定の由来◇ 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立された。 その後、昭和29年にいたり、当時第2代校長であった鈴木三郎先生、代五代PTA会長であった松本善志智氏を中心として、校歌制定の機運がもりあがり、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定された。 作詞は、当時鈴木三郎と昵懇の間柄にあった福島大学教授源後三郎(国語科担当)に直接依頼した。源後先生は、わざわざ来校され、学校周辺を視察、特に日渉園を歩かれ、歌詞の構想を練ったという。 源後先生による詩の完成をまって、作曲を古関裕而先生に依頼することになるが、そのいきさつは次の通りである。 ○当時、日本歌謡界のトップ・スターであった歌手伊藤久男氏は、本県安達郡本宮町の出身であり、小浜中PTA会長松本善志智とは従弟の関係にある。 ○伊藤久男氏は、古関裕而先生の歌を数多く歌っており、両者の関係はきわめて親悠である。 ―以上の理由から、PTA会長松本市は、甥の伊藤衆三氏(本宮町大天狗酒造会社社長・伊藤久男氏を介して古関先生に作曲を依頼しようということになった。ところが、伊藤久男氏から「私よりも、もっと古関先生に近い人がいる。その人を通してお願いしたらどうか。」と云うアドバイスがあった。その人とは伊藤五郎氏(先述の伊藤衆三氏の弟・東京在住・医師)の婦人で、当時NHK混声合唱団の団員であった。松本善志智氏は、伊藤五郎氏夫妻の紹介を得て、古関先生とのつながりができ、正式に作曲を依頼する運びになった。完成された曲は、鈴木三郎先生のたっての要望で、荘重で格調高く他にその比をみないものであった。 因みに、謝礼は源後先生に1万円、古関先生に5万円を差しあげた。この基金は、生徒会あげていなご取りに取りくみ、その収益金があてられた。 _________________________________ なお、詳細につきましては、学校だより「おばま」第5号に掲載してあります。本校トップページ右側の【配布文書】の<配布文書一覧>の中をご覧ください。 吹奏楽部1・2年生の♪生演奏♪による朝会の入退場♪![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 吹奏楽部の1・2年生だけの演奏です。少人数での演奏ですが、元気のある爽やかな生演奏です。(笑顔) 今朝の小浜は△曇り空△〜気温「2度」![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「私の中学校生活」(昭和49年度卒業文集より)![]() ![]() ![]() ![]() 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 私の中学校生活 「3年間って長いなあ」と1年の頃は思っていたけど、今思えば、もう3年生も終わりに近づいている。あっという間に過ぎてしまった中学校生活。1年の頃は心にゆとりがあって遊びに夢中だった。その頃は、まだ長いと思っていて、授業中なんか友達と騒いでたけど、今になっても気が焦るばかりで何も変わっていない。 2年の頃は、私にとって一番深い思い出のある楽しい時だった。中体連で、付き添いで杉田中へ行った時、テニスをしている人達を見ていて、何故か感激のような気持ちでいた。テニス部にいたのも数ヶ月だけど楽しかった。 3年生になんかなりたくなかった。ずっと2年生でいたかった。3年になってから、悩みや不安が多くて頭が痛い日が多かった。 ちょっとオーバーかな? 1・2年の頃より大人になったからかも知れない。でも・・・? 3年になって、今度はバトミントン部に入部した。この頃も楽しかった。憧れがあったからかな。その頃は毎日が楽しみだった。 今一番悔やんでいるというか、自分が嫌にも思える部活動も、入ったり抜けたりして自分の移り気で忍耐がないのを考えさせられた。中学生活は苦しく楽しい思い出だ。中学生活はもう二度とこない。その日を大切にしたい。 _________________________________ 「部活動について」(昭和48年度卒業文集より)![]() ![]() ![]() ![]() 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 部活動について 部活動とはこういう姿ではないだろうか。スポーツを通して親しい友や共同生活に慣れるという意義である。また、スポーツによって何を教えられるか、それは苦しさにも負けぬ強い意志や根性などをスポーツによって教えられると思う。しかし、やるからには勝利を目指してやるのが当然である。しかし、みんなはスポーツと勉強とが両立しないなどと言う。それは、「スポーツをやっているから勉強が疎かになる」と言う。俺は箏だとは思わない。 みんなが遊ぶ時、勉強すれば成績面で劣らず向上する。部活動もそれと同じである。他の学校が練習しない冬にみっちり練習すべきである。また、他の人にはない優れた運動神経の持ち主が集まる場でもある。だから、指導者の人はその人の個性を引き出し、その人の限界を超えるくらいの練習が必要ではないだろうか。いや、必要なのだ。でも、この練習に耐えられず部をやめる者も多い。その練習を乗り越えてこそ、県北大会、いや県大会という大きな勝利をつかむことができるのではないだろうか。 _________________________________ 「友情」(昭和49年度卒業文集より)![]() ![]() ![]() ![]() 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 友情 私は今、友情とはいったい何だろうと思いました。人は困難にぶつかった時、孤独になった時、心から語り合える友を求める。そうしてそこに友情が生まれていく。しかし、それは必ずしも良き感動を与えてくれるものであるかは別である。友情とは温かみのある熱いものばかりではない。時には相手を心から憎む悲愴なものもあるのだ。私は、どうにか今まで15年間を生きてきた。そして、その15年間私はいろんなことで何人かの友を知り、それらの友人の間に様々な友情を体験してきた。そして、それぞれの友情の中で共に憎しみ、共に悲しみ、共に喜び合った。一つ一つの感動を今も忘れることはできない。 私は、それらの友情から何かを得た。失ったものもある。しかし、そこから得たものは私の人生に大きな影響を与えていく。 そして、友情は永遠に語って尽きることのないものであるだけに、私は大切にしたいと思っている。 中学生時代の友人から得たすばらしい友情を大切に大切にしたい!! _________________________________
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