最新更新日:2022/09/13 | |
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『卒業記念品贈呈式』並びに『同窓会入会式』が行われる前半は『卒業記念品贈呈式』として、PTA会長の佐々木幹夫様から、卒業生代表の渡辺くんと内池さんに、PTAからの卒業記念品の「印鑑と卒業証書ホルダー」を贈呈しました。PTA会長様からは、「印鑑は大人の第一歩、大切に使ってください。」とのあいさつがありました。その後は、卒業生代表の石川くんから卒業記念品として学校へ「デジタル一眼レフカメラ」(2台)が贈呈されました。 後半は、同窓会入会式として、同窓会長の大内正男様から卒業生代表の大内くんに、同窓会からの卒業記念品の「朱肉」を贈呈しました。同窓会長様からは、同窓会入会の許可の後、「約8000人の同窓生として、これからは小浜中をバックアップする立場となってほしい。」というあいさつがありました。 最後に、卒業生代表の前田さんから、お礼の言葉と「小浜中の同窓生として誇り持って生活します。」という決意を述べました。 「卒業式は終わりではなくて新たなスタート」(朝会での教師の話)本日の教師の話は、第1学年主任の遠藤知先生です。 話の内容は、幼稚園から大学までいろいろな卒業式を経験してきたけれど、中学校の卒業式が一番思い出に残っていること、それはたくさん練習し苦労してみんなで創り上げたからであること、卒業式は終わりではなくてそこからまた新たなスタートになること等についてです。 今後もこのスタイルの朝会を継続していきたいと思います。 体育館内に大きく響きわたる校歌♪(笑顔)本日行われた寒い中での朝会でもみんなで校歌を歌い、その校歌は体育館内に大きく響きわたっていました♪(笑顔) _________________________________ ◇小浜中学校校歌制定の由来◇ 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立された。 その後、昭和29年にいたり、当時第2代校長であった鈴木三郎先生、第五代PTA会長であった松本善志智氏を中心として、校歌制定の機運がもりあがり、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定された。 作詞は、当時鈴木三郎と昵懇の間柄にあった福島大学教授源後三郎(国語科担当)に直接依頼した。源後先生は、わざわざ来校され、学校周辺を視察、特に日渉園を歩かれ、歌詞の構想を練ったという。 源後先生による詩の完成をまって、作曲を古関裕而先生に依頼することになるが、そのいきさつは次の通りである。 ○当時、日本歌謡界のトップ・スターであった歌手伊藤久男氏は、本県安達郡本宮町の出身であり、小浜中PTA会長松本善志智とは従弟の関係にある。 ○伊藤久男氏は、古関裕而先生の歌を数多く歌っており、両者の関係はきわめて親悠である。 ―以上の理由から、PTA会長松本市は、甥の伊藤衆三氏(本宮町大天狗酒造会社社長・伊藤久男氏を介して古関先生に作曲を依頼しようということになった。ところが、伊藤久男氏から「私よりも、もっと古関先生に近い人がいる。その人を通してお願いしたらどうか。」と云うアドバイスがあった。その人とは伊藤五郎氏(先述の伊藤衆三氏の弟・東京在住・医師)の婦人で、当時NHK混声合唱団の団員であった。松本善志智氏は、伊藤五郎氏夫妻の紹介を得て、古関先生とのつながりができ、正式に作曲を依頼する運びになった。完成された曲は、鈴木三郎先生のたっての要望で、荘重で格調高く他にその比をみないものであった。 因みに、謝礼は源後先生に1万円、古関先生に5万円を差しあげた。この基金は、生徒会あげていなご取りに取りくみ、その収益金があてられた。 _________________________________ なお、詳細につきましては、学校だより「おばま」第5号に掲載してあります。本校トップページ右側の【配布文書】の<配布文書一覧>の中をご覧ください。 吹奏楽部1・2年生の♪生演奏♪による朝会の入退場♪吹奏楽部の1・2年生だけの演奏です。寒い中の少人数での演奏ですが、元気のある爽やかな生演奏です。(笑顔) 乾燥・なだれ注意報が出ています(ご注意を!)また、二本松市は、福島地方気象台発表によりますと、下記のようになっております。 _________________________________ 二本松市 [継続]乾燥,なだれ注意報 [解除]強風注意報 乾燥 注意期間 5日にかけて 以後も続く 実効湿度 60パーセント 最小湿度 30パーセント なだれ 注意期間 5日にかけて 以後も続く _________________________________ 今朝の小浜は◎晴れ◎〜気温「ー5度」「想い出」(昭和50年度卒業文集より)当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 想い出 今一つの鉄塔が完成しつつある。高く大きなとてつもない義務教育という鉄塔が。この鉄塔のボルト1本1本、鉄の棒にも数々の思い出が刻み込まれている。 ある鉄塔の棒には、部の練習で汗まみれになって練習している自分。その近くの鉄の棒には、旭中との練習試合で連続三振して、先生に「勝ち気がじゃまだ」と叱られている所、二中に遠征し自分がピッチャー強襲で突破口を切ったことなど、いろいろな思い出が刻み込まれている。 このボルトには、先輩の後を継いで放送したリクエストタイムの思い出が、刻み込まれている、内容が充実せず、いつも放送の時に焦ったものだった。しかし、今度は後輩が2倍も3倍も上手にやってくれるだろう。そして、リクエストタイムが後輩にバトンタッチされる頃は、もう鉄塔の最頂点のボルトを締め終わった頃だろう。 しかし、これだけで終わったわけではない。今度は、前の鉄塔よりも2倍も3倍も大きく頑丈な鉄塔を築かなければならない。高く、大きな鉄塔を。 _________________________________ 強風・乾燥・なだれ注意報が出ています(ご注意を!)また、二本松市は、福島地方気象台発表によりますと、下記のようになっております。 _________________________________ 二本松市 [継続]強風、乾燥、なだれ注意報 風 注意期間 3日昼前まで 西の風 最大風速 12メートル 乾燥 注意期間 5日にかけて 以後も続く 実効湿度 60パーセント 最小湿度 30パーセント なだれ 注意期間 5日にかけて 以後も続く _________________________________ 「3年間の思い出」(昭和49年度卒業文集より)当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 3年間の思い出 私は今3年間を振り返ってみると、私の頭の中にいろいろと浮かぶのです。その中でも3つだけ挙げることにしました。 第1番目は部活動です。私は卓球に入っていました。先輩は、卓球のこつは体力作り第一と、来る日も来る日も体力作りとラケット振りでした。時々、卓球台を1人何分かずつ使わせました。今でも頭の中に厳しい体力作りが残っています。 第2番目には旅行です。キャンプや修学旅行や見学旅行など、それぞれ知らない土地を見学した。キャンプは、3年生よりは2年生の時の方が楽しかった。だって自分らで食事の用意をしたんですもの。旅行に行った時は、小学校よりは楽しくはなかったですが、見たことも知らない所もいろいろなことも見て来て勉強になりました。 第3番目は、誰でも嫌いな勉強です。私は勉強は大嫌いです。勉強は大嫌いだから、特に一番思い出に残ると思います。 思い出は今何年か過ぎると思い出になるのだ、と私は思う。 _________________________________ 「部活動」(昭和50年度卒業文集より)当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 部活動 中体連の準決勝はとても苦しかった。「負け」と諦めの気持ちが、みんなの目から感じられた。心の隅には「こんなことで負けたくない」。そんな気持ちがあったことはいうまでもない。しかし、私達は自分自身に勝った。中体連優勝の夢は叶ったのだ。みんな手を取り合って泣いた。本当に嬉しかった。 私は忘れていない。負けるものかと友を憎み、負けたくないとボールを打った。日曜日の練習、試合前の早朝練習、そして暗くなってからも。そんなことから継続というものの力の強さを知った。卓球のために学校があるような毎日だった。しかし、今までの生活をくだらないとは思ってはいない。かえってすばらしい世界を見ることができたからだ。 夢にまで見た県大会。すばらしい開会式は、今でも直ぐ思い出される。あの赤い土の上の行進、風船に埋まった空、そして頑張ろうと誓ったこと。 試合は結局負けではあったが、無駄だったとは思っていない。ただ「井の中の蛙」であったことをつくづく思わされた。私は自分自身に負けた。まだまだ自分は何にしても力が弱いことを知った。そして、もう何もかも終わってしまったことを考えると、とても寂しかった。 反省の時、先生は「高校に入っても卓球を続けろ」と言った。私はできるなら続けたいと思っている。今まで経験したことを土台として頑張っていくつもりだ。 ただ一つだけ寂しいと言えば、いつも怒鳴っていた「先生」、そして時にはよい友に時には戦いあった「友達」。そんな人達と別れてしまうことがとても寂しい。 _________________________________ 「友達」(昭和49年度卒業文集より)当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。 _________________________________ 友達 私は、今までの思い出がある。楽しかった思い出、苦しかった思い出がいろいろあります。 楽しかったことに修学旅行があります。今から思えば楽しい思い出なのです。その楽しかったことが繰り返し感じられます。私は一人考えてみると、友達ってとても素敵だなと思います。だって、悲しい時も一緒、楽しい時も一緒、振り返れば常に一緒に友達が居るのです。いくら嫌な人でも、やはり別れるとなるととても淋しいのです。私は、みんなと仲があまり良くありませんでしたが、今思えば、友達になれば良かったなと思います。私は先生に心配ばかりかけましたが、やっと3年生も最後を迎えようとしています。体に気をつけて頑張ってくださいね。私は、この小浜中学校を忘れはしないでしょう。私は、卒業しても友達を大切にしていきたいと思います。 詩 3年生も最後を迎えました なぜか私は淋しいのです 楽しかった毎日 苦しかった毎日 今思えば楽しい思い出 短かった3年間でした 別れ この言葉が 私の 私の最後の言葉なのです _________________________________ 昼休み、子どもたちが校庭で伸び伸びと遊ぶ!(笑顔)国際大学の支援・協力で<ともしびプロジェクト>を実施〜2年の子どもたちがブログに挑戦!(3回目)<ともしびプロジェクト>とは、被災地学校からの情報発信活動を支援するプロジェクトで、現在、岩手・宮城・福島から11の学校が参加しています。中学校の参加は、岩手県の大船渡市立第一中学校、福島県の二本松市立小浜中学校(本校)、飯舘村立飯舘中学校、いわき市立勿来第一中学校の4校となっています。情報発信活動としてホームページの支援を受けています。 本日(1日(金))、国際大学の先生2名が来校され、2年の技術の時間に子どもたちが指導を受けました。2年の子どもたちは本日が3回目(最後)で、これまでにブログ記事の書き方について、学校に興味を持つすべての人が読んでも分かりやすいていないな文を書くために、記事に必要な「いつ」「どこで」「だれが」「何を」「どのように」「なぜ」に注意しながら記事作成に挑戦してきました。その子どもたちの記事が本日完成しました!(笑顔) 完成した子どもたちの記事は、これから随時掲載していきます。ぜひご覧いただきたいと思います。 ※ 子どもたちが今まで作成した記事は、ホームページ左側の【カテゴリ】の<子どもたち自身が作るホームページ>をクリックしていただけると、今まで掲載した記事が全部ご覧いただけます。 学校だより「おばま」第74号を発行記事の内容は、「今週(2/25〜3/1)の本校の空中放射線量」「『福島中央ロータリークラブ杯県北地区中学生バレーボール選手権大会』で本校女子バレーボール部が☆☆準優勝☆☆(拍手)(笑顔)」です。 詳細につきましては、トップページの右側の【配布文書】の<学校だより「おばま」>の第74号をご覧ください。 校舎内に絶えることのない☆綺麗な生花☆&◇ひな飾り◇階段の2階に上がる踊り場のコーナーにはいつもきれいな生花が飾ってあります。この生花は、本校の用務員の齋藤さんが子どもたちのために飾っているものです。 子どもたちは登校すると、この場所を通りきれいな生花を目にしています。子どもたちだけでなく、職員も心が和みます。(笑顔) 本校では、職員一人ひとりが「子どもたちのために何ができるか」を常に考え具体的に実践しています。この生花もその実践の一つだと思います。(笑顔) 生花の前の◇ひな飾り◇も齋藤さんが子どもたちのために飾ったものです。(笑顔) 今朝の小浜は△曇り空△〜気温「2度」 |
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