最新更新日:2022/09/13
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「小浜中創立四十周年を迎え」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   小浜中創立四十周年を迎え

 ここ、小浜中学校はみなさんもご存じのように、年毎に目覚ましい発展を遂げて参りまして、こんなに嬉しいことはありません。「伸びる」とか「発展する」とかいう言葉は誠に良い響きを持っておりますが、私には全く本中学校のためにある言葉のような気がしてなりません。さらにまた、本日の創立四十周年記念日にあたり、盛大なる記念式典を挙行できますことは、誠に喜びにたえないところであります。
 私達の当時を思い起こしてみる時、学校給食はなく、生徒それぞれが「ベントウ」を持参したものです。冬には冷たくなるので大きな箱を作り、下に火を入れ、上の段の「ベントウ」を入れて温めて食べたことも懐かしい思い出です。また、教室の暖房も大変でした。学校林という山林が今もありますが、当時中学校から4km程の所にあって、イソップ童話の「アリとキリギリス」に出てくる「アリさん」になって、夏の間に生徒全員で背中に薪を背負い、校舎の軒下まで運び、冬に備えるというものでした。
 そういった思い出を胸に、本日の記念式典を迎えまして、ひとしお感慨深い次第でございます。
 当時に比べ、生徒数は少なくなったものの、豪華な鉄筋三階建ての校舎という環境ですばらしい発展を目にし、耳にする現在であります。スポーツは全て上位に位置し、勉強も常に抜群の成績を示し、誠に喜ばしいかぎりであり、心から感謝する次第であります。また本校の教育内容・水準が、隣接市町村をはるかに抜き出ておりますことは、すでに定評のあるところでございます。われわれ父兄としては、心から全幅の信頼を申し上げておりますが、ここに、改めてお礼申し上げます。
 創立四十周年は、誠に記念すべきこととは存じますが、これを一つの節目として、これからの前進こそが真の意味での我が小浜中学校の伝統をつくり上げ、磨き上げる時代なのではないかと思います。
 はなはだ簡単ではございますが、なお一層の努力と勉学をご期待申し上げまして、本日のあいさつとさせていただきます。

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 いろいろな苦労があったのですね。これからも小浜中学校の伝統を築き上げ発展していくためにも、☆前進☆あるのみです。

「中学時代の思い出」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 昭和二十九年度卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   中学時代の思い出

 遠い昔の話だが、私には、二つの大きな思い出があります。その一つは、陸上競技大会で信夫ヶ丘陸上競技場で安達代表として走ったことです。百米一本にしぼっての参加。二百米も好きな種目であったが、当時スポーツの鬼とまでいわれた鈴木三郎校長先生に、百米一本でやれ・・・と毎日放課後スタートの練習。スターティングブロックを裸足で強くけるので足の親指のうらが血で真っ赤になる毎日でした。毎日練習しても十三秒を切ることが出来なかった。スタートダッシュが悪い。百米競走は、スタート一歩目で決まるんだ・・・。どの大会でも、君は、スタートが悪いと注意される毎日でした。
 東達大会で一位、安達大会で一位、県大会で三位、夢であった信夫ヶ丘競技場において走ったときは、最高のよろこびでした。心配されたスタートもフライング寸前セーフ。七〇米位までトップでいったが、最後に追いこまれ三位でした。自分でもおどろくような記録十三.三秒でした。私の中学時代の大きな思い出の一つとして大切に心に、残したいと思います。
 もう一つの思いでは、一年生のときか二年生のときかちょっと忘れましたが、初森の山から割木を背にして運んだ思い出です。細い山道を全校生で運んだ割木は、重かった。今、思い出してみると寒い冬のまきストーブで暖をとったんだと思います。鬼満(悦)先生と競争した思い出もあります。先生が三束なら私が四束にすると、先生は五束にする。私が六束にすると・・・先生は七束。鬼満(悦)先生、今でも思い出にあるだろうか?しかし、最後に、鬼満(悦)先生に負けた。
 鬼満(悦)先生に力くらべは負けましたが、大きな思い出となっております。顔一面に、あせを光らせ歯をくいしばって頑張った苦労も、社会で出てからも苦しい思い出は必ず今でいう「人間造り」とつながり将来むくいられるとでも当時の先生の話には、あったんだと思います。
 同級生の皆さん、日本の北から南の端にはなれていても同窓生の心は、結ばれておりますし、出発点は、小浜中学校です。下手ながら同窓生の皆さんと遠かりし中学時代を思い出して、文章にしましたが、皆さんに「あ・・・そんな事もあったっけなあ。」と思い出してもらえれば幸いである。

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 先輩方には、今では考えられないよう大変な苦労があったのですね。素晴らしい先輩方です。

「我等の頃のPTA時代を顧みて」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   我等の頃のPTA時代を顧みて

 小生は尋常小学校最後の「ハナ・ハト・マメ・マス」の読本で一年生に入学しました。次の一年生からは「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。」の色刷りの読本でした。小学校入学時から旧制達中の五年卒業まで、戦争に次ぐ戦争で学校生活を過ごし、終戦の月日が運命の境で、八月十五日の終戦が遅れれば命は沖縄特攻で「トウー」に無かった筈でした。幸か不幸か、現在、未だに生き長らえています。あれから四十二年の歳月は流れ、終戦後は「特攻の生き残り」という事で、三年位は要注意人物として監視されているなと感じました。
 その後、その感じも薄らぎましたが、今浜中四十年の同窓会誌を発刊するとの報を受け、寄稿依頼され有難く思っております。小生がPTAに出始めたのは、子供達が中学校に入学してからであり、小学校の時は殆ど出席せず家内任せでした。PTA会長の職を遂行出来たのも、当時の役員の方々の並々ならぬ協力があったからこそ出来たのであり、当時の役員の方々を列挙すると大変な数になりますので割愛させて頂きますが、その方々には改めて感謝の気持ちで一杯です。旧制中学時代よりも、浜中PTA当時の方が思い出が多く且強烈に残っています。今当時を振り返り、知る人ぞ知る、いろんな事がありました。裏話も多く口外する事は出来ませんが、特に思い出なのはブラスバンドの楽器購入の資金作りに、先生・生徒・PTAの会員が一緒になり「フキ取り」を行い、その代金と同窓会からの一部の協賛金を加え、購入の基とした事、又当時の先生方のストライキに依る宿直代行を、役員で割り振って宿直を行った事、ピアノの問題等々。部活の為に体育等後援会を作ったり、新入生からは長髪を禁止し、息子からも猛反対を受けたり、「一に学力、二に学力、三四がなくて五に学力。」ということで、有り余る生徒の精力を部活で発散させながら、学力向上一途に「ツッ走った」事等、当時の役員の方々の協力には万腔の感謝の念で一杯です。当時は日教組運動の盛んな頃で先生方の意志の疎通の事もありましたが、生徒諸君の非行等の問題は有りませんでした。しかし、今となっては良きにつけ悪しきにつけても良い思い出であり、永遠に浜中が優秀校として発展し続けることを祈願しております。
 古き良き時代を顧みながら、改めて当時の役員の方々に感謝申し上げますと共に、浜中のより一層の発展をお祈り申し上げます。 

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 いろいろな苦労があったのですね。

「外から見た小浜中学校の歩み」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代校長が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   外から見た小浜中学校の歩み

 私が初めて中学校の教員として教壇に立ったのは、昭和25年である。最初の勤務校は岳下中学校。当時、未だ戦争の傷跡が癒えず、物資食料など極端に不足しており、運動具などもなかなか手に入らず、しかも粗悪であった。そうした中にあっても生徒のスポーツへの意欲は旺盛であった。その頃、安達郡には26の中学校があった。学校数が多いことから、中体連大会や各種コンテストに入賞することなど容易なことではなかった。しかも郡大会に出場するためには、方部大会という関門を通り越さなければならなかった。従って安達郡を制覇するということが、各校の監督や選手達にとって見果てぬ夢であった。
 こうした状況の中、ひときわ光っていたのは小浜中学校チームであった。文字通り小浜中チームは郡大会の常連であった。当時、郡大会の会場は例年二本松であった。小浜中チームが会場に現れると、一種独特の威圧感があった。身長は概ね粒が小さかったが、それにもかかわらず小浜中のユニフォーム姿を見ると皆の視線が集まった。また、抽選が行われ、小浜中とぶつかると、皆一様に嫌な顔をしたものである。私は今でも小浜中のプレーの姿を覚えている。決してスマートなチームではなかったが、粘り強くてしぶとくて、監督の指示通り一糸乱れず動いていた。また、基本には極めて忠実であったことも、部外者であった私達の良いお手本であった。
 野球ばかりでなく、ソフトも男子テニスもバレーもいいチームであった。特に、ソフトチームの強さは群を抜いていた。押しても引いても動かない岩のような重さを持っていた。スポーツは同情されるようになったらおしまいである。小浜中は真面目なチームカラーであったが憎まれることが多かった。強かったからである。郡七連覇の快挙も決して偶然ではなかったのだ。
 昭和33年、私は住み慣れた岳下中から白岩中に転任した。白岩では、野球部・ソフト部を連れて、自転車でよく小浜中に練習試合にきたものだ。やられて生徒と一緒に成田の道をとぼとぼ帰って行った。「強いなあ」と云うのが実感であったし、僅差の接戦をした後など満足であった。
 去年(昭和61年)私は縁あって小浜中にお世話になることになった。夢よもう一度!「君達の先輩は強かった。君達もその強さ逞しさを見習ってほしい。」私はそう云い続けて生徒を激励している。嬉しいことに眠っていた小浜魂がやっと目を覚ましたようだ。勝つ味と喜びを覚えてきたようだ。勉強もぐんぐん力をつけてきている。もう一歩だ。もう一息だ。
 生徒が奮い立つ陰には、小浜中学校40年の歴史と伝統の重みがある。このどっしりした重みを支えに生徒達は、弛みない歩みを続けていくと信じている。
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 今後も小浜中のよき伝統を継承し、子どもたちが弛みない歩みを続けられるよう指導・支援していきたいと思います。

「追憶」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   追憶

 昭和27年4月、晴れて小浜中学校に入学した。入学式は、体育館がなく、教室の境の戸を外し、机、椅子を廊下に出しての入学式であった。卒業式ももちろん同じであった。朝の会は、校庭でやり、雨の日は休みであり、この繰返しが2年続いた。
 27年は、福島国体開催の年でもあり、小浜中から女子の4百メートルリレーが出場した記憶がある。
 冬の暖房は薪ストーブで、薪は夏のうちに、山より切り出された松を背で運び、又、リヤカーで運び、クラス毎に積重ね冬に備える。
 体育館も、校歌も、なかった小浜中に、29年、待ちに待ったその時が来た。しかし、体育館の基礎工事に、何と男子生徒が、松杭打のヨイトマケの作業を、体育の時間にさせられた事、今では考えられない事である。同年に、小浜中校歌が、作詞源後三郎、作曲古関裕而両先生で出来上がった。
 中学校生活3年間のうちに、数多くの思い出があったが、30余年過ぎた今でも、同級会等で顔を合わせると走馬燈のように甦ってきます。
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 小浜中の先輩方は、たいへん苦労して伝統を築き上げてきたんですね。

「PTAの始まり?」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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 日本が太平洋戦争に敗れ、戦争終結したのが昭和二十年である。当時国内は戦いによって徹底的に痛手を受け、国土は荒廃し物資は欠乏し、特に食糧難は深刻で吾々は山野の草や根を食べて飢えをしのぐ日々であった。そういったさなか、昭和二十二年五月一日、学制改革が施行され、小浜中学校が生まれたのである。
 さて、学校が創立されたといっても、校舎があるわけでなく、小学校の中に中学校が割り込んだ形で、云ってみれば、一つの学校の中に二つの学校が同居したことになり、先生も生徒もさぞ不自由な思いをしたことであったろう。また混乱と欠乏の中にあって、満足な教具もなく、学用品にも事欠く苦難の日々であった。
 私が初代PTA会長に就任したのは、開校翌年の昭和二十三年である。PTAについて、こんなエピソードがある。初めて耳にするPTAという言葉に人々は馴染めず、消毒薬のDDTと勘違いした人もあったという笑えない話もある。このため、PTAの活動や役割についてナトコ(アメリカから払い下げを受けた映写機)持参で部落を巡回しPRに努めたこともあった。当時のPTA会費は月5銭で、今から思うとやはり四十年の歳月の隔たりを感ぜざるを得ない。
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 PTAの始まりとその当時の苦労がよくわかります。

2つの『小浜中学校応援歌』

画像1 画像1
 本校には、下記のように2つの応援歌(作詞:大内 貞、作曲:松本正二)があります。他の中学校には、なかなか見られない伝統的なものです。歌詞の内容をみると、自然と元気と勇気が出てきます。(笑顔)

【小浜中学校応援歌1(燦たる栄光)】

(力強く)
一 松風はかぐわしくして安達嶺に雲はるかなり
  隈東の丘につどえる若人の意気いや高く
  たぎり立つ赤き血潮鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光

二 ああここに時こそ得たりさし示せ試練の業を
  堂々の覇権をきそう若人の意気いや高く
  きょうなる正義の心鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光


【小浜中学校応援歌2 凱歌】

(よろこびに満ちて)
一 ひたすら力尽くして今や栄冠は
  我らにほほえみグランドは夕映を染めぬ

二 選ばれし若人達は今や栄光に
  酔いつつ泣きてその面に入り日ぞ染めぬ

三 里人は心まつらん今や友ひとに
  たたえられつ さわたりの灯を見ん
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
学校行事
4/2 着任、職員会議
4/5 式場作成
4/6 着任式・始業式・入学式
PTA行事
4/6 新入生保護者会、PTA役員会・引継会
その他
3/31 学年末休業日
4/1 学年始休業日
4/2 学年始休業日
4/3 学年始休業日
4/4 学年始休業日
4/5 学年始休業日(最終日)
4/6 春の交通安全運動

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