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「40年前に戻って」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   40年前に戻って

 創立50周年を迎えるにあたり、40年前に戻ってみようと思います。
 昭和32年の春、中学1年生になり毎日を楽しく過ごしたように思われます。
 学校行事で、スポーツ関係ですとクラス対抗のソフトボール大会があり、各クラスとも昼休みの時間は、校庭でソフトの練習をしていました。大会のルールで、上級生との対抗には、ハンディがあり私達は優勝候補の3年生と決勝戦をやり、ハンディのおかげで優勝したことが思い出されます。
 校内マラソン大会では、上級生にはかないませんがそれでも我がクラスの橋本君は、2年生や3年生にまじって上位入賞し皆で喜びあいました。
 また、運動会の仮装行列では、全員で闘牛士をやったことや校内合唱コンクールでは、クラス毎にクラスの歌を作詞作曲して発表したことなど懐かしく思い出されます。
 校内一斉テストでは、毎回50番まで総合点数と氏名が各学年の廊下に張り出されましたが2年か3年生になった時、総合点と順位だけで氏名の発表はなくなり話題もややうすれてきました。
 フキ取りでは、何時でもクラスの本間さんが、リヤカーに積み運んでくるのでクラスの仲間は、どうしてこんなに取れるのか不思議でした。
 当時、フキやイナゴ取りの収益は、部活動の運営費になるので各部が予算を出していかに多く獲得するか代表者によって、獲得合戦がなされました。こうした、奉仕作業を勉強しているより好きな仲間もおりました。
 2年生の時、担任の佐藤先生が、校舎裏のゴミ捨て場をどうにかしようと提案され皆で土を運んで畑をつくり、サツモ芋の苗を持ち寄って植え収穫した芋を皆で食べたり、小麦をつくりそれをパンと交換したことなど昨日のように次から次へと思い出され、すっかり中学校時代に戻ってしまいました。
 楽しい思い出がいっぱいの我が母校、小浜中学校が今後も、後輩達がよい学舎として発展し前進することを願っております。
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 先輩方は、今では考えられないような大変な苦労と努力をしてきたのですね。

「野球と蕗とりの思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   野球と蕗とりの思い出

 小浜中の野球と言えば、佐々木先生を、当時校長先生であった鈴木先生が惚れこんで野球部の顧問として安達商より迎えて3年目で私達は、東達大会優勝、郡大会優勝、県北大会3位という成績を収めることができた。
 当時を振り返ると県北大会は信夫ヶ丘球場で開催され私は、レフト前とライト前に2安打した記憶があり、あの有名な広い運動場で試合をしたことが、今でも信じられない。
 夏休みは学校で合宿が行われ、ドンブリ飯でおかずもなく食べたことやある時は、雨降りの大会で、本多君が目の上にデットボールを受け大きな青たんこぶをつくり、目がかすんで見えなくても最後までがんばった姿は今でも忘れることができない。野球を通しても、又人生も同じだと思うが、最後までがんばる姿が人間として最も美しいと感じたことか。
 毎日の練習も厳しく佐々木先生に「お前は足が遅いからグラウンドをもう1周回ってこい」等と言われたことも思い出される。
 又、もう一つの思い出は、学校行事の1つであった蕗とりの思い出である。父の生まれた家に泊まりがけで蕗とりに行き、自分で取った蕗を何回も休み休み運んだ事。自分でも驚いているが小浜中の町内の生徒の中で1番量を取ったことである。あの苦しい経験や情熱を燃やした頃を思う時、何事においても努力しなければとつくづく思う。
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 「努力は裏切らない」という言葉を思い出しました。努力が人を成長させるのですね。

「浜中創立50周年に寄せて」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   浜中創立50周年に寄せて

 戦後の混乱と疲弊の中で教育の機会均等の理念のもとに「学校教育法」が昭和22年3月に施行公布され、県下一斉に新制中学校が発足してから、今年で50年の節目の年を迎えました。
 我が母校小浜中学校においても昭和22年5月に設置され、創立50周年を迎えました。
 この50年の間には七千有余の卒業生を送り出し、それぞれの分野において活躍されておられることは申すまでもなくご承知の通りであります。その陰には、財政的に恵まれない時代にあって学校建設等教育環境の整備を担当されている行政当局、あるいは教育力向上に熱心に当たられた学校関係者、そして、それを支えてきた地域社会の諸先輩の方々が、戦後の荒廃した社会にあって、先進諸国に追いつけ追い越せとの意識・情熱が力となって小浜中の伝統を築かれた結果だろうと思います。
 さて、戦後半世紀が過ぎ、世界有数の経済大国に成長してゆく過程で失われた自然環境・人間関係・そしてその地域にしかない伝統文化がそのまま残されている我が郷土小浜を、どう子供たちに伝えてゆくかを考える今日このごろです。
 
 讃たる栄光小浜中学栄えあれ!
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 先人の並々ならない努力と苦労があって現在の素晴らしい小浜中があります。伝統はきちんと引き継がれてきています。

「むかしの はなし」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   むかしの はなし

 創立50周年、まことにおめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。この歴史は、たくさんの人々の、長〜い努力と、協力があったればこそと、確信いたします。
 当時を振り返ってみますと、昭和32年4月、小浜中学校へ入学致しました。春はふき取り、秋は、いなご捕り、養蚕多忙時の農繁休業等がありました。
 又当時から運動も盛んで、私はテニス部に所属していました。郡の大会では、我が小浜中は、常に上位の成績で、小浜中同士で決勝を戦ったこともありました。私達が3年の時から、県大会が開催されることになり、小浜中より、本多・大内組が会津若松市で開かれた、最初の県大会に出場したのが、つい昨日のように、懐かしく思い出されます。
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 中体連県大会の歴史はここから始まったのですね。

「創立50周年記念に憩う」(創立50周年記念誌より)

 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   創立50周年記念に憩う

 今、振り返り思えば、自分が在学していた頃は半分が木造校舎であり、冬は石炭のストーブでした。私は昭和35年度卒で、子供3人が中学校にお世話になりました。過ぎ去る歳月は本当に早いものです。私自身は10年間PTA活動に携わりました。その間には数知れないほどの思い出があります。バレーの県大会(相馬)女子ソフト(新舞子)どちらも浜通りの会場でマイクロバスで応援に行きました。バスの中は大人の遠足そのものです。出来る限りの声をあげて応援しました。5年度は、会津喜多方プラザで吹奏楽の応援でした。これは声も物音も出せません。結果がどうか全然分からず不安の中、ゴールデン金賞の受賞。飛び上がり、抱き合って喜んだことが目に浮かびます。
 視聴覚室にはパソコンが設置され、素晴らしい教育機材が充実しました。
 この永き歴史と伝統のある浜中が力強く邁進しておりますのも、町の教育を始め、歴代校長、諸先生方々、PTA役員、保護者、生徒の努力と協力の賜物であると思います。
 数千人の人が浜中の学び舎を後に、社会で活躍されていることと思います。今後も文武両道、忍耐と創造力を秘めた前途洋々たる生徒が、浜中の15の春を迎え、希望を胸に巣立つことを期待し、浜中の益々のご発展をお祈り申し上げ、お祝いの言葉と致します。
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 今でも各種大会には、子どもたちに熱い声援をおくる保護者や地域の方々の姿がいつでも見られ、とてもありがたく思います。

「私の思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   私の思い出

 私が会長の時の思い出の一つに、校長先生はじめ顧問の先生方のご協力により、各部活全体に保護者会が出来たということです。きちんとした保護者会も一部ありましたが、どのようにしてよいかわからなかった保護者会もあったようであります。ある時、保護者会長さんから他の部の保護者会はどういうふうになって、どんな事をしているんですかと相談がありました。それでは一度すべての保護者会長さんを集めて話を聞こうではないかと考えて、学校に集まってもらうことにしたんです。すると、いろんな意見がありました。役員はこうするとか又、中体連、新人戦の時はこうするとか、私達の部ではこういうものがほしいですとか、とても有意義な会になりました。それから現在まで、各部とも素晴らしい保護者会が続いていると聞く時は、すべての部に保護者会を作って本当に良かったなと、思っています。
 保護者会が出来てからは、生徒達の活躍は素晴らしいものがありました。県大会、県北大会と、それぞれの部の今後益々の活躍と小浜中の発展をお祈り申し上げます。
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 現在ある各部保護者会の歴史はここから始まったのですね。先人のご尽力にとてもありがたく思います。

「遠い想い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   遠い想い出

 私たちは、敗戦という悲惨な毎日を送る昭和21年4月高等科1年入学か希望者は旧制中学へ進む往時の世相を思うと、シベリヤなど外国からの引き揚げ者が毎日何万人と舞鶴や呉の港で、ごった返しであった。
 国内にあっては、食料や衣料不足で都会から地方へ来て、痛ましい想い出の衣料を持って米などと交換に汽車に毎日満員であった。(当時1ドル360円)『米よこせ』のデモが東京を始め都市部で大騒ぎだった。
 昭和22年マッカーサー元帥の指導により教育基本法が公布され現在の6・3制となる。
 私たちは、新制中学2年となり初めて男女共学になった。校舎は、小学校北校舎の一部を借用して新制中学校がスタートしました。
 教科書はなし、たとえば音楽でしたら先生は小学校兼務の松本正二先生、歌「異国の丘」など木製のオルガンをひき本がないので耳で覚えた。
 国語は、大内貞先生が島崎藤村や松尾芭蕉などの本を数多く読んでくれました。また本がなく作文をひんぱんに書かされたことが記憶に残っている。
 スポーツでは、野球が戦争中禁止であったが終戦後間もなく人気をとりもどした。しかし用具が購入できず手づくりの「バットやグローブ」でしばらくの間は我慢してやった。学校ではイナゴとりなどして野球用具一式を購入していただいた時の喜びは生涯忘れることはできません。
 私も野球部へ入る。監督は、柔道の達人でもある佐藤哲雄先生がなったが、野球はまったくの素人で本を読みながらよく指導してくれた。
 当時、早稲田大学の現役選手を招き本場野球を教わったりして小浜中は、郡内でも強かったです。
 今振り返って当時を思うとき、苦しかったという印象は私にとってそんなにない、むしろ波瀾万丈の時代、今とはうらはらの時代、青春に富む中学時代、先生と楽しく過ごした想い出は語り尽くせなく、50年過ぎたいま恩師が減っていくのが淋しい。
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 当時の物資不足で苦労したことがよくわかります。「物を大切にする」ということは、不易でありこれからも大事にしていきたいです。

「私の思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   私の思い出

 「光陰矢の如し」という言葉があります。早いもので母校が創立してから50年の月日がたちました。この学び舎から数千名の人々が社会に出て、それぞれの地域においてご活躍されておりますことは、誠に素晴らしく小浜中学校の誇りとするところでしょう。
 戦後50年が過ぎ、さらには地方自治法が施行されて50年がたち、記念すべき創立50周年の事業であること誠に喜ばしいかぎりであります。
 この母校が創立された頃の思い出は沢山あります。自宅の近くで遊んでいると本宮(旧グンゼ工場)が、爆撃されているのを、間近に見た思い出があります。
 とても恐ろしい光景でした。又『蟻とキリギリス』の話のように、夏になると準備をしなければならない物がありました『薪』です、冬の暖房の為の燃料です。今の成田町田から約4キロの道を歩いて運ぶのです。今ではとても考えられないことです。
 当時の私たちの学年は4クラスありました。今は全学年で9クラスと聞いております。小浜中に限らず全国的に少子化が問題となっております。又、以前は今のような「イジメ」等も無く狂気的な犯罪も無く平和な時代だったと思います。
 今後も我々が学んだ母校を守り皆さんと共に継承し、小浜中学校が限りなく発展されますようご祈念を申し上げますと共に、50周年記念事業に際し、ご苦労されました、同窓会役員始めPTAの役員並びに教職員の皆々様に感謝を申し上げまして私の思い出の一言と致します。
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 昔の苦労が実感できます。これからも「イジメ」のない明るく元気な学校にしていきたいと思います。

昭和61年度卒業生年直し同級会寄付贈呈式

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 本日午後4時30分から、「昭和61年度卒業生年直し(厄払い)同級会寄付贈呈式」を行いました。式には、同級会の代表幹事の「移川直弥様」と幹事の「渡辺正美様」がお出でになり、生徒会長の石川君、副会長の大内君と村田さんが出席しました。
 同級会は、1月2日に浜の湯で行われ、49名と恩師の先生方2名が参加し、盛大に行なわれたそうです。同級会の中で震災があり大変な年であったので、同級生一同として母校に記念品を贈ろうということになり、同級会に参加できなかった方々全員に声をかけ、寄付を募ったそうです。
 贈呈式では、移川様、渡辺様から「これからの生徒のみなさんの活動で使っていただいて、さらに良い小浜中になってほしい。」というあいさつがあり、その後生徒会役員の皆さんに、「体育館ワイヤレスマイクシステム一式」が贈られました。
 生徒会長の石川君から、「これから様々な行事で大切に使わせていただきます。」というお礼の言葉で式を締めくくりました。
 同級生の皆様、本当にありがとうございました。

「創立50周年にあたって」(創立50周年記念詩より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時の校長が書いたあいさつ文が目に止まりました。以下に原文の一部抜粋して紹介します。
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   創立50周年にあたって

 小浜中学校が創立されて50周年を迎えることとなりましたが、誠に意義深く、ご同慶に堪えません。
 顧みますに、本校は飽和22年4月15日小濱町立小濱中学校として創立、同年5月1日開校、以来50年の歳月を経るなか、幾多の苦難を乗り越えつつ輝かしい歴史と伝統を築きながら、約7千名に及ぶ卒業生を送り出してまいりました。これも偏に、本校教育の充実発展に尽力された郷土の先人と奉職された先輩教職員各位の努力と、行政当局、地域住民のご理解とご協力の賜であり、これら多くの方々に対し心より敬意と感謝の意を表わす次第であります。
 本校の沿革詩並びに学事報告記録を総覧して強く思うことは、「不易流行」という言葉です。ちなみに昭和23年度の教育目標には、『「社会の要求に応じ、正義感と責任感とが強く、自主的精神に富む」「真理を探究し個人相互の評価を尊ぶ」「正しい職業観をもち勤労を愛する」「明朗にして健康である」国民を育成する』と掲げられていますが、現在の教育目標と何かわることなくまさに不易であります。一方、学事報告に記載されている行事や進路やスポーツ(現在の部活動)の状況などはその年度その年度で変化がありまさに流行であります。そして、さらに思うことは、その時代その時代に対応すべく不易と流行の調和を図ってきた先輩教職員各位の英知と努力の姿であります。
 今、学校教育は21世紀を目前にして大きく変わろうとしておりますが、創立50周年を迎え、これを機にこれまでの経緯を振り返り、先人の労苦と偉業を回顧するとともに、新たな世紀に向かって力強く前進しなければと、その意を固めておるところであります。そのためにも、日々の教育活動を停滞させないよう肝に銘じ、生徒一人一人に心豊かで社会の変化にたくましく対応する能力を育成し、郷土を愛しその発展に寄与する人間の育成に努めてまいりたいと考えております。
 以下略
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 小浜中学校創立以来、ずっと引き継がれ大切にされてきた不易をこれからも大切にしたいものです。

「小浜中学校創立50周年に寄せて」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   小浜中学校創立50周年に寄せて

 昭和22年学制改革により、6・3・3制がしかれ、私が第1回生とし30余人が尋常高等科より中学3年生として入学しました。
 校舎は現在の小学校の体育館の所にあった旧校舎を小学校より借り、急こしらいの名ばかりの小浜中学校校舎で学んだ1年間でしたが、私たちは希望に燃えて、新しい勉強に新しい学校作りに励んだことが走馬燈のように思い出されます。
 昭和26年学校教育も軌道に乗り学校設備も充実し、生徒の情操教育に是非、吹奏楽部を作りたいとの話があり、時のPTA会長さんが町に陳情したところ予算が少なく、何かよい方策がないかと・・・。私が1回生なので相談を持ちかけられて来たので、それでは同窓会を組織してみようと町内在住の卒業生に呼びかけ予算不足分を同窓生にお願いしたのが同窓会の出発でした。
 同窓会も郡内では1番早く結成され、吹奏楽の楽器の購入資金も同窓生の後輩を思う心により、郡内1の吹奏楽の楽器を購入でき、生徒達の熱心な練習により、昭和26年県中学校音楽祭に参加し『最優秀校』に輝くことが出来たことが記憶に残る思い出であります。
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 同窓会の原点がわかりました。「小浜中の子どもたちのために」ご尽力いただいたことに感謝申し上げます。

「50周年を迎えて」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時の生徒会長が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   50周年を迎えて

 先輩達や先生方、PTAの方々を始めとする、多くの人達の手によって築き上げられてきたこの小浜中学校も、ついに50周年を迎えることになりました。これまでの、数々の素晴らしい伝統を受け継ぎ、更なる発展を遂げることが、私達に課せられた使命です。
 現在も引き続き実践されている事の一つに朝の挨拶運動があります。1週間交代で各クラス全員が早く登校し、玄関前で他の生徒達を出迎えます。社会生活において、挨拶はとても大切なコミュニケーションの1つです。挨拶を交わす事で、お互いの気持ちを通い合わせ、その日1日を気持ちよく過ごすことが出来ます。ですから、この運動をより充実出来るように、生徒一人ひとりがその意義を再確認し、挨拶の大切さを心に留めて行っていきたいものです。この挨拶運動の他にも、部活動・生徒会活動をはじめ、ボランティア活動や各行事などにも熱心に取り組んでいます。しかし、残念に思われる点もあります。それは全体的に消極的で、指示待ちが多いという事です。そのため人まかせになってしまう事が多く、もっと積極的に自分の意見や考えを行動に表わすことで、更に能力を伸ばせると思います。
 これらの努力すべき点をそれぞれが自覚し、また現在の良き伝統に加え、新たな素晴らしい伝統を刻んで行けば必ず飛躍への道は約束されると思います。そして、この誇るべき私達の小浜中を、後輩達に引き継いでいきたいと思います。
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 小浜中の歴史は脈々と引き継がれています。あいさつ運動は、現在も続けられています。

「思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   思い出

 私が入学時、旧校舎と新校舎(今の地蔵尊の休憩所)がありました。3年生になると新校舎に入りました。また県道側に桜の木があり、その桜の木は大きく成長し、今でも美しい花を咲かせています。また在学中に「東京オリンピック」が開催され、全校生で二本松まで行き、聖火リレーを見たあの感激は今でも忘れられません。桜の花は、春に咲き、春には散ってしまいますが、本校を巣立っていった多くの桜の花びらたちは、いまも、全国で元気いっぱいに咲き誇っております。この50年間で7千人以上がすでに巣立っていきました。まことに感慨無量でございます。
 昨今、統合中学校が多い中で、小浜小の卒業生だけがそのまま入学する中学校は少ないと聞いております。逆にいえば、それだけ先生と生徒の距離は近く、コミュニケーションはよく、中身の濃い授業を展開し、『文武両道』の伝統が残っています。先の福島国体の水泳で出場した生徒もおりました。
 本日は、50周年でありますが、今後、60周年と本校がますます発展しますよう、お祈りすると共に、同窓生の一人として、甚だ簡単ですが、思い出とお祝いの言葉といたします。
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 小浜中の重厚な歴史と伝統を感じます。

「私のPTAの思い出」(創立50周年記念誌より)

 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   つらかった、校舎引地工事

 早50年の節目に当り経過が薄れがちでしたが、50周年記念行事が行われるとの事で回顧する機会が出来光栄に思います。
 私は、昭和22年度小学校高等科を卒業しましたが、改正による中学校の移行期間があり同級生約220名でしたが、新制中学3年に進学した数は30数名程度でした。
 当時、現在の中学校の場所を選定しその引地造成は学区の各戸に割当てられ、モッコ、リヤカー、トロッコ等で行い、河川の変更も皆人力による作業で、私の家では18人の人夫割当で辛かった思い出が浮かんできます。
 やがて私の子供が中学になり、昭和53年PTA会長をさせて頂きました。
 昭和24年に新築した校舎は焼却年限が来、昭和52〜3年に現在の校舎が新築され、PTA会長渡辺さん、私が副会長でした。特に校舎周辺の緑化が最大事業であり、学区全戸より協賛金を頂き植栽を行いました。
 同53年には屋体完成し、私が会長で設計、入札立会、特に引地造成が岩盤で特別予算組入の難工事でした。

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 昔は、校舎を造るのにもかなりの苦労があったのですね。

「在職5年の思い出から」(創立50周年記念詩より)

 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代校長が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部抜粋して紹介します。
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   在職5年の思い出から

 私は昭和47年4月から52年3月までの5年間在職。この誇り高い小浜中学校で39年の教員生活のしめくくりをさせていただきました。非才な私を支えてくださった皆さまのご厚情終生忘れ得ません。衷心感謝いたしております。ありがとうございました。
 さて私も退職後20年、80才を迎えます。おぼろげな記憶から特に印象に残ることを記し50年の歩みのひとこまになれば幸甚に存じます。
 私の最初の忘れ得ない思い出としてはブラスバンド部の創部です。以前からPTAを中心に同窓会、体育等後援会が一体となり検討を進めており、47年度に入り資金造成に具体的な取り組みを決定、まず町長等に予算措置の懇願書を提出、一方白岩中の楽部を招き演奏をきき理解を深めた。そしてPTA、生徒会による「ふきとり」により40万円、同窓会員の協賛金30万円、計70万円を確保、PTA会長、同窓会長の連名で町長への寄付採納願いに添えて提出した。後日120万円の予算をいただき楽器の購入ができた。音楽科の戸田先生を中心に部員をまとめ活動に入った。特に日本楽器社東北指導担当の大友先生(仙台市)が数度にわたり来校し宿泊して心技一体の優れた指導に敬服感謝、いまも心に残ります。48年2月18日「PTA一日入学」を開催し町長等来賓のご臨席をいただき発表会を行い、報告、披露しお礼を申し上げた。以来毎年県大会に出場。それぞれの部門で入賞の成績をおさめた。現在交通安全、町産業文化祭等の特別演奏に万感の思いで拝聴いたしております。
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 ブラスバンド部創部には、たいへんな苦労があったのですね。

「思い出の生徒会新聞」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 何年に発行されたものか定かではありませんが、「思い出の生徒会新聞」の中のある『生徒會報』が目に止まりました。以下に一部を抜粋して紹介します。
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   七石三斗 三六五〇〇円
    いなごとり

 秋も深まり、冬のけはいさえ感じられるころ、霜を心配しながらいなごとりを三回行った。雨にぬれ、衣服をよごしながら、私達はがんばった。その結果、三回とも一万を超え、計七石三斗、三六五〇〇円にもなった。その中で、特に優秀な人を挙げると、次の通りである。
 1 一貫百八十匁 佐藤○○(三B)
 2 一貫百四十匁 三浦○○(二A)
 3 八百四十五匁 石川○○(二C)
 4 八百十五匁  鈴木○○(三A)
 5 八百五匁   大内○○(三D)
 6 七百七十匁  鈴木○○(三A)
 7 七百四十五匁 佐藤○○(二D)
 8 七百四十匁  遠藤○○(二D)
 9 七百三十匁  沢田○○(三A)
 10 七百二十匁  渡辺○○(三B)
 11 七百十五匁  遠藤○○(二D)
 12 七百十匁   菅野○○

 ※12名の方の名前は、個人情報の関係から省略させていただきました。

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 上位5名の男女の内訳と現在の重さに換算すると次のようになります。
 1 女子 4425g
 2 女子 4275g
 3 男子 3169g
 4 男子 3056g
 5 女子 3019g
 
 女子の頑張りが目立ったようです。イナゴの佃煮の1匹の重量は約7.5gだそうです。全部で何匹とれたのでしょうか? 考えただけでも大変な苦労があったことが分かります。
 「七石三斗」とはどの位の重量なのでしょうか? 1石=約31kg、1石=10斗として計算すると、何と約226kg(使ったことのない単位なので計算が正しいかどうかは不明です)となります。驚きです!!

「私の思い出」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 昭和三十一年度卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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      私の思い出

 昭和三十一年、当時私が中学二年生の時、浜中野球部が県北大会で優勝し、信夫ヶ丘球場に浜中の勝利の凱歌が流れました。現在ではその上に県大会がありますが、当時は県北大会が野球部員の目標でした。私も部員の一員であり二年生でレギュラーと、本当に光栄で、あの時の感激は忘れることができません。優勝旗を手にトラックで町内をパレード、ずっしり重いあの優勝旗。監督は佐々木先生で、安達高校時代名キャッチャーとして活躍し、卒業して間もなく浜中野球部の監督になり、年も若いせいか馬力も桁外れで、部員にとってはおっかない監督だったと思う。夏休みの練習では合宿も許可され、部員全員が寝起きを共に朝夕の猛練習がチームワークを生んだのかもしれない。
 こんなエピソードも。練習中にあった先輩がエラーをし監督からバケツに入った水を頭からかけられたことも。又、恥ずかしい話では、試合は頭に学生帽、ストッキングは八足しかなく、先輩の分だけ全員裸足で試合をするいう、現在では考えられないことです。それでも東達方部、郡大会、県北大会と完全優勝。出場した他校の選手と比べて、体が大きいわけではなく、力が強いわけでなく、それで優勝できたことは、監督の指導力、先輩達のチームワークが勝利に導いたと思っています。
 現在四年ごとにナインと監督、諸先生方を囲んで思い出会を開いており、今から四年目の来年を楽しみにしているところであります。

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 先輩方の優勝の陰には、たいへんな努力と苦労があったのですね。先輩の頑張りをぜひ見習いたです。

「現役からのお便り<女子テニス部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の女子テニス部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<女子テニス部>

 私達女子テニス部は、念願の県大会へ出場することができました。
 県大会での1回戦は、吾妻中という学校でした。吾妻中は私達と同じくらいの力でした。同じくらいの力なのですから最後は気迫で勝負しなければなりません。私達は自分の力を信じて、精いっぱいやりました。応援の方も郡大会の時よりも迫力がある応援でした。全員が一つになってやってるんだなあと思いました。浜中のテニス部が一丸となってやったおかげで1回戦は無事突破できました。あの時の喜びは、今まで試合をやって勝った時の喜びとはどこかが違いました。この調子で2回戦もと思っていました。2回戦は惜しくも負けてしまいましたが、自分達の力を出し切って負けたのですから、悔いはありませんでした。
 この試合を最後に3年生は引退しました。
 私は、もっとたくさんの練習をしておけばよかったと今、後悔しています。ボールが思うようなところに決まらなくて、悩んでいた日もありました。でも良かったこともたくさんありました。ボールがスパーンと決まった時の気持ちの良さ、試合に勝った時の喜び。後輩にも、私達が体験して良かったと思うことを早く経験してほしいと思います。
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 充実感や達成感は、一生懸命に取り組んだ時に得られるものなのですね。

「現役からのお便り<卓球部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の卓球部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<卓球部>

 思い出、それは何といっても、練習中のことが一番印象深いと思います。こんなことを書くのがおかしいと思われるかも知れませんが、これが私にとって、一番思い出深いことなのです。
 私が部長になってから、数日たったくらいで、他の部活との差が出てしまったのです。
 私は、そもそもあまりリーダー性や積極性がなく引っ込み思案でした。それで部長になったのだから、まとまりなどあるはずがありません。それに、私の家は、ちょっと遠いので、練習をおろそかにしたことがありました。それでも、副部長の協力で私のいない時は代わってもらい、ずいぶん助かったこともありました。
 部長になって慣れてきてからも、まだ先生に甘えて、先生のいない時は、ずいぶん楽をしたり遊んだりして先生に怒られたこともありました。
 新人戦では、あまりにもひどい成績で、先生もがっかりさせてしまいました。
 しかし、中体連では県北大会に出場することができました。1回戦で負けたとはいえ、中学校生活の最高の思い出の一つとなりました。部活動で学んだことをこれからの生活に生かしていきたいと思っています。
 後輩たちの頑張りに期待します。
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 部活動から学ぶことはたくさんあるのですね。先輩のエールのように、子どもたちの頑張りに大いに期待したいです。

「現役からのお便り<男子バスケット部>」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の男子バスケット部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   部活動の現況報告<男子バスケット部>

 僕はこの中学校に入学してから3年間、バスケットボールに打ち込んできました。嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったことなどたくさん心に残っています。3年前、他の部には目もくれず、迷いもせずに、体育館に飛び込んでいったことが、今でも懐かしく、いい思い出として、心に残っています。
 やがて2年生になり、中体連も終わり、いよいよ新チームを作る時、僕は、部長に選ばれました。不安と嬉しさがまじって複雑な気持ちでした。少しでも強くなろうと、自分なりに頑張ってはみたものの、チームをまとめることは難しく、だいぶ苦労しました、しかし、先生の指導のもと1日1日練習を積重ねる内に、みんなの心が通じ合い、やがて、どこのチームの先生からも、
 「まとまりのある 良いチームだ!」
と、言われるまでになりました。
 大会では良い成績をおさめることは出来ませんでしたが、この3年間やってきたことは無駄ではなかったと思っています。協力する大切さ、友だちの励ましの心強さ、その他にもいろいろなすばらしいことを心の支えにして、これからも頑張っていきたいと思っています。
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 部活動からいろいろなことを学ぶことができるのですね。大切なのは、何事にも一生懸命に取り組むことだと思います。
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学校行事
3/12 卒業式準備
3/13 卒業証書授与式
その他
3/8 県立高等学校2期選抜学力検査
3/13 月末統計(第3学年)9日(3学期46日、今年度198日)

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