最新更新日:2022/09/13
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「我等の頃のPTA時代を顧みて」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   我等の頃のPTA時代を顧みて

 小生は尋常小学校最後の「ハナ・ハト・マメ・マス」の読本で一年生に入学しました。次の一年生からは「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。」の色刷りの読本でした。小学校入学時から旧制達中の五年卒業まで、戦争に次ぐ戦争で学校生活を過ごし、終戦の月日が運命の境で、八月十五日の終戦が遅れれば命は沖縄特攻で「トウー」に無かった筈でした。幸か不幸か、現在、未だに生き長らえています。あれから四十二年の歳月は流れ、終戦後は「特攻の生き残り」という事で、三年位は要注意人物として監視されているなと感じました。
 その後、その感じも薄らぎましたが、今浜中四十年の同窓会誌を発刊するとの報を受け、寄稿依頼され有難く思っております。小生がPTAに出始めたのは、子供達が中学校に入学してからであり、小学校の時は殆ど出席せず家内任せでした。PTA会長の職を遂行出来たのも、当時の役員の方々の並々ならぬ協力があったからこそ出来たのであり、当時の役員の方々を列挙すると大変な数になりますので割愛させて頂きますが、その方々には改めて感謝の気持ちで一杯です。旧制中学時代よりも、浜中PTA当時の方が思い出が多く且強烈に残っています。今当時を振り返り、知る人ぞ知る、いろんな事がありました。裏話も多く口外する事は出来ませんが、特に思い出なのはブラスバンドの楽器購入の資金作りに、先生・生徒・PTAの会員が一緒になり「フキ取り」を行い、その代金と同窓会からの一部の協賛金を加え、購入の基とした事、又当時の先生方のストライキに依る宿直代行を、役員で割り振って宿直を行った事、ピアノの問題等々。部活の為に体育等後援会を作ったり、新入生からは長髪を禁止し、息子からも猛反対を受けたり、「一に学力、二に学力、三四がなくて五に学力。」ということで、有り余る生徒の精力を部活で発散させながら、学力向上一途に「ツッ走った」事等、当時の役員の方々の協力には万腔の感謝の念で一杯です。当時は日教組運動の盛んな頃で先生方の意志の疎通の事もありましたが、生徒諸君の非行等の問題は有りませんでした。しかし、今となっては良きにつけ悪しきにつけても良い思い出であり、永遠に浜中が優秀校として発展し続けることを祈願しております。
 古き良き時代を顧みながら、改めて当時の役員の方々に感謝申し上げますと共に、浜中のより一層の発展をお祈り申し上げます。 

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 いろいろな苦労があったのですね。

「外から見た小浜中学校の歩み」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代校長が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   外から見た小浜中学校の歩み

 私が初めて中学校の教員として教壇に立ったのは、昭和25年である。最初の勤務校は岳下中学校。当時、未だ戦争の傷跡が癒えず、物資食料など極端に不足しており、運動具などもなかなか手に入らず、しかも粗悪であった。そうした中にあっても生徒のスポーツへの意欲は旺盛であった。その頃、安達郡には26の中学校があった。学校数が多いことから、中体連大会や各種コンテストに入賞することなど容易なことではなかった。しかも郡大会に出場するためには、方部大会という関門を通り越さなければならなかった。従って安達郡を制覇するということが、各校の監督や選手達にとって見果てぬ夢であった。
 こうした状況の中、ひときわ光っていたのは小浜中学校チームであった。文字通り小浜中チームは郡大会の常連であった。当時、郡大会の会場は例年二本松であった。小浜中チームが会場に現れると、一種独特の威圧感があった。身長は概ね粒が小さかったが、それにもかかわらず小浜中のユニフォーム姿を見ると皆の視線が集まった。また、抽選が行われ、小浜中とぶつかると、皆一様に嫌な顔をしたものである。私は今でも小浜中のプレーの姿を覚えている。決してスマートなチームではなかったが、粘り強くてしぶとくて、監督の指示通り一糸乱れず動いていた。また、基本には極めて忠実であったことも、部外者であった私達の良いお手本であった。
 野球ばかりでなく、ソフトも男子テニスもバレーもいいチームであった。特に、ソフトチームの強さは群を抜いていた。押しても引いても動かない岩のような重さを持っていた。スポーツは同情されるようになったらおしまいである。小浜中は真面目なチームカラーであったが憎まれることが多かった。強かったからである。郡七連覇の快挙も決して偶然ではなかったのだ。
 昭和33年、私は住み慣れた岳下中から白岩中に転任した。白岩では、野球部・ソフト部を連れて、自転車でよく小浜中に練習試合にきたものだ。やられて生徒と一緒に成田の道をとぼとぼ帰って行った。「強いなあ」と云うのが実感であったし、僅差の接戦をした後など満足であった。
 去年(昭和61年)私は縁あって小浜中にお世話になることになった。夢よもう一度!「君達の先輩は強かった。君達もその強さ逞しさを見習ってほしい。」私はそう云い続けて生徒を激励している。嬉しいことに眠っていた小浜魂がやっと目を覚ましたようだ。勝つ味と喜びを覚えてきたようだ。勉強もぐんぐん力をつけてきている。もう一歩だ。もう一息だ。
 生徒が奮い立つ陰には、小浜中学校40年の歴史と伝統の重みがある。このどっしりした重みを支えに生徒達は、弛みない歩みを続けていくと信じている。
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 今後も小浜中のよき伝統を継承し、子どもたちが弛みない歩みを続けられるよう指導・支援していきたいと思います。

「追憶」(創立40周年記念同窓会詩より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 卒業生が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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   追憶

 昭和27年4月、晴れて小浜中学校に入学した。入学式は、体育館がなく、教室の境の戸を外し、机、椅子を廊下に出しての入学式であった。卒業式ももちろん同じであった。朝の会は、校庭でやり、雨の日は休みであり、この繰返しが2年続いた。
 27年は、福島国体開催の年でもあり、小浜中から女子の4百メートルリレーが出場した記憶がある。
 冬の暖房は薪ストーブで、薪は夏のうちに、山より切り出された松を背で運び、又、リヤカーで運び、クラス毎に積重ね冬に備える。
 体育館も、校歌も、なかった小浜中に、29年、待ちに待ったその時が来た。しかし、体育館の基礎工事に、何と男子生徒が、松杭打のヨイトマケの作業を、体育の時間にさせられた事、今では考えられない事である。同年に、小浜中校歌が、作詞源後三郎、作曲古関裕而両先生で出来上がった。
 中学校生活3年間のうちに、数多くの思い出があったが、30余年過ぎた今でも、同級会等で顔を合わせると走馬燈のように甦ってきます。
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 小浜中の先輩方は、たいへん苦労して伝統を築き上げてきたんですね。

「PTAの始まり?」(創立40周年記念同窓会誌より)

 学校に保管されている創立40周年記念の同窓会誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 歴代PTA会長様の一人が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を紹介します。
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 日本が太平洋戦争に敗れ、戦争終結したのが昭和二十年である。当時国内は戦いによって徹底的に痛手を受け、国土は荒廃し物資は欠乏し、特に食糧難は深刻で吾々は山野の草や根を食べて飢えをしのぐ日々であった。そういったさなか、昭和二十二年五月一日、学制改革が施行され、小浜中学校が生まれたのである。
 さて、学校が創立されたといっても、校舎があるわけでなく、小学校の中に中学校が割り込んだ形で、云ってみれば、一つの学校の中に二つの学校が同居したことになり、先生も生徒もさぞ不自由な思いをしたことであったろう。また混乱と欠乏の中にあって、満足な教具もなく、学用品にも事欠く苦難の日々であった。
 私が初代PTA会長に就任したのは、開校翌年の昭和二十三年である。PTAについて、こんなエピソードがある。初めて耳にするPTAという言葉に人々は馴染めず、消毒薬のDDTと勘違いした人もあったという笑えない話もある。このため、PTAの活動や役割についてナトコ(アメリカから払い下げを受けた映写機)持参で部落を巡回しPRに努めたこともあった。当時のPTA会費は月5銭で、今から思うとやはり四十年の歳月の隔たりを感ぜざるを得ない。
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 PTAの始まりとその当時の苦労がよくわかります。

2つの『小浜中学校応援歌』

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 本校には、下記のように2つの応援歌(作詞:大内 貞、作曲:松本正二)があります。他の中学校には、なかなか見られない伝統的なものです。歌詞の内容をみると、自然と元気と勇気が出てきます。(笑顔)

【小浜中学校応援歌1(燦たる栄光)】

(力強く)
一 松風はかぐわしくして安達嶺に雲はるかなり
  隈東の丘につどえる若人の意気いや高く
  たぎり立つ赤き血潮鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光

二 ああここに時こそ得たりさし示せ試練の業を
  堂々の覇権をきそう若人の意気いや高く
  きょうなる正義の心鍛えしを思えば長し
  今こそあげよ力の限り
  我等が希望の我等が希望の燦たる栄光


【小浜中学校応援歌2 凱歌】

(よろこびに満ちて)
一 ひたすら力尽くして今や栄冠は
  我らにほほえみグランドは夕映を染めぬ

二 選ばれし若人達は今や栄光に
  酔いつつ泣きてその面に入り日ぞ染めぬ

三 里人は心まつらん今や友ひとに
  たたえられつ さわたりの灯を見ん

校門近くの歌碑〜「校歌」

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 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立され、本校校歌は、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定されました。校歌の作詞者は源後三郎氏、作曲は古関裕而氏です。
 校門近くに、歌碑「校歌」(小浜中学校新築記念 環境施設協力会:昭和54年11月完成)があります。

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   安達太良山の
   けだきすがた
   はるかに仰ぐ
   平和の里に
   希望ゆたかに
   学び舎たてり
   これぞわれらの
   小浜中学

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 校歌の1番の歌詞ですが、この歌詞だけを見ても、豊かな大自然に囲まれた中で、子どもたちが未来に向かって大志を抱きながらすくすく成長する姿が想像できます。(笑顔)

「尽人事待天命」(小杉隆文文部大臣揮毫)

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 校長室内に、小杉隆文文部大臣揮毫の「尽人事待天命」という言葉が掲げられています。「尽人事待天命」は「人事を尽くして天命を待つ」と読みます。意味は、やるべきことをやったら後は天に任せるということです。
 言葉の由来は、胡寅(こいん)という人の書いた「読史管見」に有名な「人事を尽くして天命を待つ(盡人事待天命・盡人事而待天命 )」です。(出典は読史管見)
 子どもも大人も人の生き方として、とても考えさせられる言葉だと思います。
 今やるべき事をしっかりやることが大切なのだと思います。

「人を先に私を後に」(坂田道太文部大臣揮毫)

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 校長室内に、坂田道太文部大臣揮毫の「人を先に私を後に」という言葉が掲げられています。人の生き方として、とても考えさせられる言葉です。
 坂田道太さんには、次のようなエピソードがあります。
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 政界引退後の2000年5月14日朝放送されたNHKの『日曜討論 森総理大臣に問う』の中で、森喜朗首相が「滅私奉公」という政治姿勢に触れた際、「亡くなられた坂田さんから『人を先に、私はあとに』という言葉の方が分かりがいいよと言われました」という趣旨のことを述べました。
 番組を見ていた坂田さんの夫人(三知世さん)によると、坂田さんは席をはずしていて「あなた、死んだわよ」と森首相発言のことを話すと、「そうか」と笑って受け流したといいます。(後日森首相から釈明がありました。坂田さんの元秘書だった元衆院議員渡瀬憲明さんの死去と勘違いしたということです)
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校門近くの石碑〜「創造」

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 本校の教育目標は、『創造・気迫・礼儀』です。
 この教育目標は、木造校舎から新校舎となった昭和54年度に策定されたものです。以来現在まで、社会は大きく変化し、それに対応し教育界も様々な変革がなされていますが、『創造・気迫・礼儀』から成る本校の教育目標は、その意味内容に若干の変化はあるものの引き継がれてきました。そのことは、生徒や保護者、地域社会及び教職員の求める教育の基本に通じるものが流れているからだと考えられます。
 現在では、本校の「校訓・信条」的な言葉として、在校生はもとより、卒業生や地域にもしっかりと根をおろし、多くの人に馴れ親しまれています。
 校門近くにいくつかの石碑がありますが、その一つに写真のような「創造」と刻印された石碑があります。この石碑は昭和43年度卒業生一同様が寄贈したものです。
 「創造」の字は、当時の文部大臣灘尾弘吉氏のようです。
 小浜中学校の重厚な歴史と伝統を感じます。

小浜の偕楽園

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 本校の校門を入った付近は、PTAの奉仕作業などできれいに整美されており、四季折々でいろいろな雰囲気を楽しむことができます。雰囲気がまるで偕楽園(!?)のようです。
 毎日出勤すると目にする光景にいつも心が癒されます。
 正に☆小浜の偕楽園☆でしょうか。(笑顔)

土手の「浜」「中」

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 本校の校舎と校庭の間の土手に、植込み木で「浜」「中」という文字が見えます。校庭東側から校舎を望むと、土手の大きな「浜」「中」の文字の上に校舎が堂々とそびえています。歴史と伝統の重みを感じます。

感嘆符 ☆昭和61年度卒業生同級会案内

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 本校の昭和61年度卒業生(昭和62年3月卒業生)による同級会が行なわれます。今回の同級会は男の初老厄払い(としなおし)を兼ねて行われるものです。
 現在のところ卒業生82名中、50名前後の参加の予定です。詳細は次のようになります。保護者の皆様にも該当される方がおられると思いますので、よろしくお願いいたします。

1 日時  平成24年1月2日(月) 
      厄払い 11:00、同級会12:00
2 場所  厄払い−塩松神社、同級会−浜の湯(鳥居町)
3 会費  男 10000円、女 8000円
4 代表  移川 直弥 様(または、学校まで)

☆旧校舎と新校舎(現校舎)の写真

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 本校の校長室には、上のような旧校舎と新校舎(現校舎)の写真が飾ってあります。この写真は、昭和54年に「故 大内英雄 様」(藤町の大内理美容院全店主様)に撮影していただき、学校に寄贈していただいたものです。
 こののち旧校舎は取り壊され、現在の校庭となりましたが、新旧二つの校舎が同時に写っている大変貴重な写真です。

※ 写真の左下にあるテレフォンカードは、平成9年に創立50周年記念事業を行った際の記念品です。このテレフォンカードにもこの写真が使われています。

感嘆符 ◇小浜中学校校歌制定の由来◇〜校歌には先人の熱い思いが込められています!

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 校長室に、上の写真のように◇小浜中学校校歌制定の由来◇が記された額が掲げてあります。記された文章をよく読むと、校歌制定に相当な努力と苦労があったことが想像されます。校歌には先人の熱いが込められています。
 掲額された文章は次のようになっています。(原文そのまま)
 先人の熱い思いを感じ取っていただければ幸いです。
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    ◇小浜中学校校歌制定の由来◇

 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立された。
 その後、昭和29年にいたり、当時第2代校長であった鈴木三郎先生、代五代PTA会長であった松本善志智氏を中心として、校歌制定の機運がもりあがり、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定された。
 作詞は、当時鈴木三郎と昵懇の間柄にあった福島大学教授源後三郎(国語科担当)に直接依頼した。源後先生は、わざわざ来校され、学校周辺を視察、特に日渉園を歩かれ、歌詞の構想を練ったという。
 源後先生による詩の完成をまって、作曲を古関裕而先生に依頼することになるが、そのいきさつは次の通りである。
○当時、日本歌謡界のトップ・スターであった歌手伊藤久男氏は、本県安達郡本宮町の出身であり、小浜中PTA会長松本善志智とは従弟の関係にある。
○伊藤久男氏は、古関裕而先生の歌を数多く歌っており、両者の関係はきわめて親悠である。
―以上の理由から、PTA会長松本氏は、甥の伊藤衆三氏(本宮町大天狗酒造会社社長・伊藤久男氏を介して古関先生に作曲を依頼しようということになった。ところが、伊藤久男氏から「私よりも、もっと古関先生に近い人がいる。その人を通してお願いしたらどうか。」と云うアドバイスがあった。その人とは伊藤五郎氏(先述の伊藤衆三氏の弟・東京在住・医師)の婦人で、当時NHK混声合唱団の団員であった。松本善志智氏は、伊藤五郎氏夫妻の紹介を得て、古関先生とのつながりができ、正式に作曲を依頼する運びになった。完成された曲は、鈴木三郎先生のたっての要望で、荘重で格調高く他にその比をみないものであった。
 右の写真(コピー)は、伊藤五郎氏の案内で、鈴木三郎校長夫妻、松本会長が古関先生宅を訪問し、作曲を依頼したときのものである。(月日不詳)
因みに、謝礼は源後先生に1万円、古関先生に5万円を差しあげた。この基金は、生徒会あげていなご取りに取りくみ、その収益金があてられた。


    ◇作詞者・作曲者のプロイール◇

源後三郎先生 明治40年10月25日生まれ、安積郡富久山町(現在郡山市富久山町)に生まれる。検定試験で教員の資格をとり、小学校の先生―女学校の先生(会津女学校)―師範学校の先生―福島大学教育学部教授となる。詩に長じ、県内各地の校歌の作詞を手がけた。昭和46年福大在職中に逝去された。小浜中学校校歌を作詞したのは47歳のことである。

古関裕而先生 明治42年8月11日生まれ、福島市出身、昭和3年福島商業卒業後状況。作曲家山田耕作氏に師事音楽の勉強に励む。1949年英国作曲コンテストに応募して入選、これを機にめきめき頭角を現わし、日本トップの作曲家となる。現在日本作曲協会の理事。代表作(戦前)船頭可愛や(戦中)紺碧の空、暁に祈る、空の神兵、若鷲の歌、(戦後)鐘の鳴る丘、東京オリンピックマーチ(1964年)等 現在78歳東京世田ヶ谷在住、浜中校歌作曲当時は46歳であった。
(昭和63年3月・第10代校長中澤剛太郎読)
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 本校のこどもたちに、この校歌制定の由来について話をし、小浜中の伝統と誇りをしっかり受け止め継承させたいと思います。子どもたちの校歌を歌う気持ちや姿勢が変わると思います。
 なお、上記の◇小浜中学校校歌制定の由来◇については、トップ右側の<配布文書一覧>の【同窓会関係】にも掲載してあります。

小浜中学校沿革史を掲載〜小浜中の歴史がわかります

 小浜中学校沿革史を掲載しました。小浜中の歴史がわかりますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
 詳細につきましては、トップページ右側の<配布文書一覧>の【同窓会関係】をご覧ください。

感嘆符 小浜中学校校歌♪メロディ♪がお聴きいただけます!

 小浜中学校校歌♪メロディ♪が、ホームページでお聴きいただけるようになりました!
 トップ右側にある<配布文書一覧>の【同窓会関係】の中の『小浜中学校校歌メロディ♪』をクリックいただきますと、♪メロディ♪が流れます!♪
 ただし、お聴きいただくためには「Windows Media Player」が必要ですので、パソコン内に無い場合は、「Windows Media Player」をダウンロードしていただきたいと思います。

感嘆符 小浜中学校校歌を掲載

 小浜中学校校歌(作曲:源後三郎、作曲:古関裕而)の楽譜を掲載しました。トップ右側の<配布文書一覧>の【同窓会関係】をどうぞご覧ください。

感嘆符 ★同窓会(同級会)などの情報をお寄せください★

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 現在、このホームページは、保護者はもちろんのこと地域の方々、関係者の方々、広くは県外の卒業生の方々などたくさんの方々に見ていただいております。
 このネットワークを活用して、同窓会や同級会の開催情報をお知らせしたいと考えます。今後、同窓会や同級会、年直し、卒業生の会合などの情報やお知らせがあれば、学校まで連絡をいただければ、随時掲載していきたいと思います。
 現在の小浜中学校だけでなく、卒業生や地域のコミュニティーの情報交換の場にしたいと考えますので、よろしくお願いします。
 
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学校行事
4/2 着任、職員会議
4/5 式場作成
4/6 着任式・始業式・入学式
PTA行事
4/6 新入生保護者会、PTA役員会・引継会
その他
3/31 学年末休業日
4/1 学年始休業日
4/2 学年始休業日
4/3 学年始休業日
4/4 学年始休業日
4/5 学年始休業日(最終日)
4/6 春の交通安全運動

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