最新更新日:2022/09/13
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「星」「夕やけ」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   星

 夜空に光る星
 私の上の星は何の星
 悲しみの星
 それとも
 よろこびの星
 いろいろの星が 夜空に光る
 限りない夜空の中で
 この星は 私の星
 あの星は
 だれの星だろう
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   夕やけ
 ぼくは 夕やけを見る
 山と夕やけが
 うまく調和されている
 遠くの山々
 いろいろな色が
 うまく調和されている
 燃えるような夕やけ
 すんだ 夕やけ
 悲しいときも
 おなじ夕やけを見たときだって
 いろいろにかわってくる
 夕やけ
 この世界に
 これほど美しいものがあろうか
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「わが岩代町」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   わが岩代町

 わが岩代町は、福島県、いちばん出かせぎがおおい市町村に数えられている。
 とうちゃんも、出かせぎに行っていて、年に2・3回しか帰ってこない。
 なぜ、岩代町が、出かせぎが多いかというと、過疎地域なので出かせぎが多い。と、テレビでは言っていた。
 岩代町の人口は、約1万2千人となっている。
 安達郡では、本宮町についで2番目となっている。
 福島県の人口は、約195万人で、市町村の数は91あるが、その中で岩代町の人口は31番目だ。
 福島県の中で、人口が31番目ということは、案外岩代町の人口は、けっこう多いとぼくは、思った。
 昭和46年までは、小浜、広瀬間をバスが通っていなかったが、ようやくバスが通るようになった。
 いまでは、岩代町には、町営グランド・公民館もできた。
 小学校には、新しい体育館もでき、3階建ての、鉄筋コンクリートの校舎もできた。
 中学校には、シンクロファックスという機械も入り、数学に利用している。
 こうして、岩代町は、だんだん発展してきている。
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「わが初森」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   わが初森

  わが村の神社
 初森には、諏訪神社・羽山神社・あと地尊がある。諏訪神社は、天平時代頃建築したと父は言う。古い諏訪と新しい諏訪とがある。古い方は織戸の方にあったといわれている。新しいのは、僕のいる本郷という部落にあります。この新しいのは2度建築された。今の諏訪神社には木製のやりや、刀が飾られていたが、だれかにこわされて今は、影一つなくこわされた跡だけです。羽山神社は、高い山の上にあります。やはり天平時代の頃だと思われる。地尊の方は、毎年小浜と同じように子どものための子守り地尊をやる。
  初森のバスの停留所
 正切から菅野・織戸・初森分校前・亀之内・八斗田がある。
  祭り
 祭りといえば、獅子踊りである。毎年11月3日におこなう。まず最初に2日前から大きな旗を立て祭りの日になると羽山神社を獅子が、踊ってお舞いりしてから、諏訪神社に来る店は、2軒ぐらいしかこないが、見にくる人は、50人ぐらいはいる。
  農業
 農業は、一般にたばことか養蚕などが、おもな仕事です。
  初森分校
 4年間義務教育を学んでそして、小浜の学校へと通うのです。僕が、中学生の頃初森分校は、廃止していた。いまは、東邦ゴム会社となり、次々に新しいゴム製品「くつ・長ぐつ」など次々に製産されている。
  現在いる人の数
 現在いる人の数はだいたい百人いるかいないかで、現在は、過疎しつつある。
  部落の分かれ
 私たちの部落は、現在いる本郷・正切・葉ノ木・十文字とに分かれている。
  まとめ
 初森という所は、空気はいいし自然にかこまれ食べるものは、何不自由としません。それから最後にこの初森という集団は、いつ現われいつ出てきたのか、誰も知らない。
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「わが郷土」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   わが郷土

 ある日「わが城山町」という報告文を学び終えて、先生に皆さんも自分たちの部落についての報告文を他の土地の人に報告するように、書きなさいと言われた。
 そこでぼくの住んでいるとろこは、福島県安達郡岩代町の西勝田の中の小部落のツツジ山というところです。
 ところが資料がないためにぼくは、ツツジ山という名前がどうしてついたのかということについて述べたいと思います。
 それではつつじとは、低木で春の山に咲く花のことです。ところが、県道を歩いていつも学校に通学しているが、ツツジ山といわれるように咲いていない。
 そこで、山道を歩いてみたらわかるのではないかと思いつき、2、3日後に、ぼくの家の前にある山の中の道を歩いてみたところ「どっこい」つつじが、たくさん青々と初夏のころで繁っていた。
 というところで、つつじが多くあるので、ツツジ山と名前がつけられたのだろうと思い祖父に聞いてみたところ、やはりそのとおりであった。
 ところで、今、都会では光化学スモッグとかで騒いでいるようだが、ぼくたちの恵まれた自然を分けてやりたい気持ちである。
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「わが岩代町」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   わが岩代町

 岩代町は、福島県安達郡の東部にあって、西から東へ細長く伸びている。人口約1万2千人という小さな町です。
 江戸時代の初期に小浜を中心に栄えたといわれている。
 現在では、過疎現象が著しく、出かせぎも、福島県はいちばん多い町である。
 しかも町税は、1割にもみたなく、大部分は国にたよっているありさまです。
 春、田植えをし、春から秋にかけて養蚕をする。蚕がおわるとこんどは稲刈りがはじまる。稲刈り脱穀がおわるとこんどは、出かせぎに出てゆくのです。
 わたしの家の近所にも出かせぎに出ている人は少なくない。
 出かせぎに出ている人のほとんどは、東京・大阪方面に出かけてゆくのです。なかには、一年中出かせぎに出ていて、盆と正月、それと、農繁期だけぐらいしか、家には帰られないという人もいます。
 最近では、工業もさかんになってきている。しかしほとんどの工場は中小工場で、主婦が大部分である。あまり忙しくない冬などを利用して務めている人も少なくない。
 これからは、若い人たちが町に残り、町を発展させて、出かせぎなどひとりもいなくない、どの家庭でも家族そろって食事ができるような町に・・・と私は願っている。
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「若者」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   若者

 むかし若者は戦ったという
 空の下で・・・・・。
 むかし若者は泣いたという
 故郷の家で・・・・・。
 前を見ても後を見ても
 暗やみの中で
 ただ若者は光を求めて
 さまよい歩いたという。
 戦争が終わった今
 若者はどこへ行ったのだろう。
 戦争の中で大砲と戦っていた
 あのすさまじい若者は
 戦争は何人もを天国へ追いやった
 にくいにくい怪物。
 しかし、
 戦争はほんとうの若者たちを
 つくりあげてくれた神様
 あのすさまじい若者は
 いつ、
 この広い世の中に
 帰ってくるだろう。
 でも今度は
 違った場所に違った形で
 帰って来てほしい
 戦争という名ではなく・・・・・。
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「雪ぐにの生活を楽しくするために」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。文を読んで涙が出ました。
 以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   雪ぐにの生活を楽しくするために

 ヒュー、身を切るような冬の季節風とともに、東日本一帯に雪が舞い降りる。きびしい冬の訪れを告げるように、これからが雪と「雪ぐに」の人々の戦いがはじまるのだ。
 しかし、「雪ぐに」の山村に残る者は少ない。父も母も兄もみんな出かせぎに出かけていってしまうからだ。家に残ったのは、祖父母と私たち姉妹ばかり、こうしたところにも「雪ぐに」のきびしさが感じられる。一歩外に出れば、木枯らしがほほをさすかと思われるほどのひどい寒さ。だから父や母が出かせぎに出かけていってしまったあとは、とにかく、けがをしないよう、かぜをひかないよう、交通には気をつけるようと、やかましく言う。祖父母が総大将で、私たちは、何でも祖父母の命令に従うことになっている。
 秋にとり入れた米や芋や野菜類は木小屋に整理されてしまってある。だから、私の家では三度三度米ばかりはたべられない。一日に一度は必ず「すいとん」とか「うどん」である。
 そして、祖父も祖母も、この冬ごもりの中でも決して休んでばかりではない。祖父は、春になってから、野らで働くときのために備えて、せっせと「わら細工」に余念がない。また祖母も、ひまをみては、野ら着の「つくろい」に精を出している毎日である。祖母はもう72。目も老眼になってしまって、よく見えない。それで針の穴の糸通しは、私の役目である。祖父も祖母も口ぐせのように、
「父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも、この寒いのに東京であぶない仕事をしているんだ。おれたちがあそんでいたのでは、ばちがあたる。」
 と言う。したがって、私たちも父母が家に居たときよりは炊事の手伝いもよくするし、勉強もする。この正月帰ってきた父母や兄に、
「なんだ、愛子は、おれたちがいない方が成績があがったんでねえか。」
 と言われたほど成績もあがった。だから、父母や兄が家に居ない方がいいかと言うと、決してそうではない。毎日、学校から帰ったとき、「いま帰ったのか。」と、やさしく声をかけてくれる母の家に居ないことは、何と言っても私にはさびしいことだ。また、楽しいはずの夕食のとき、そこに、父の、そして母や兄の顔が見られないことは、私には堪えられないほどのさびしさである。まして、まがった腰を、のばしのばし働いている祖父や祖母の姿は、私の涙をさそう。
 「雪ぐに」と一言で言えば、なにか文学作品を思わせるような詩的な感情をさそうが、現実の私たちの生活は決してそんな甘い感じのものではない。一年中、父や母や兄が「出かせぎ」などに出なくても、なんとか生活してゆける経済的なゆとりを私たち農民に与えてほしいのである。その生活は最低であってもいい。とにかく家族の者が、はなればなれにならないで、ひとつ屋根の下で仲よく生活してゆけるようにしたいというのが、私の一番のねがいなのである。
 「雪ぐにの生活を楽しく」と言うことは、この私のねがいがかなえられないかぎり、私には味わうことのできない遠いことである。
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「3年間の思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時現役の野球部主将の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   3年間の思い出

 野球部で過ごした3年間を振り返ると、さまざまなことを思い出します。
 まず、入部1年目、初めはボール拾いなどでしたが、3年生の引退後、やっとまともにボールやバットを握って練習できた時は、うれしくてたまりませんでした。その中で1番思いで深いのは、新人戦です。僕もレギュラーとして出られましたが、緊張のあまり思うように体が動かずチームも負けてしまい、あの時は悔しくて涙が出ました。
 そして2年目、先輩達にとっては最後の中体連、相手はなぜかまた新人戦の時と同じ相手、新人戦のかりを返したい、勝ちたい、という気持ちが勝って、勝つことができました。それは、まぐれではなく、実力でした。その後も勝ち、何年かぶりかの県北大会出場という快挙を成し遂げました。
 そして3年目、今度は僕達にとって最後の中体連、目標は県大会出場、それだけ僕達は強かった。2年連続で県北大会出場を成し遂げ、目標に大きく近づいた。が、運命の県北大会1回戦の相手は北信中学校、敵の投手や大した投手ではなかった。いいあたりは多かったがいつもの打線のつながりがなかった。0対01死2塁でむかえた7回裏、打球はセンターへ、ランナーがかえってきてホームイン、サヨナラ負け。僕は頭が真っ白になって倒れこんだ。そして涙があふれてきた・・・・。
 こうして僕達の3年間は終わりました。
 今思うと、部活をしていたころ、野球をしていたころが1番楽しかったと思います。引退して、初めてその楽しさに気付きました。だから後輩には、部活がやれる、野球がやれる今この時をもっと大切にしてほしいと思います。そして県大会に行けることを望みます。
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 何事にも熱中している時が、一番充実して楽しい時なのだと思います。先輩の言葉は、ぜひ後輩達に伝えていきたいと思います。

「創立50周年を迎えて」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   創立50周年を迎えて

 この原稿を書く前に、坊主頭で学帽をかぶりカバンを背負っていた自分をふと思い出す。
 中学生になりたての頃、初めての教科である英語にとまどい、なんで外国の言葉を勉強するの?とふと疑問を抱いた時期があった。
 また、部活動の面では中体連大会が近くなると、夜遅くまでの練習でもう疲れて家に帰る。その当時は精神的、体力的にも疲労がたまっていたのにちがいないとふと思った。
 しかし、その反面熱心に時には、ジョークを言ってクラスを和ませてくれた先生方やバカなことを言い合い、時には真剣に話し合った友人がいて楽しい中学生活の思い出の方が多かった。
 まさ、余談はともかく私たちの母校である小浜中学校が今年創立50周年を迎え、長い歴史のある小浜中は、7千人を超える同窓生がいる。そして、それぞれの進路を歩んでいる。
 最近、私は中学の友人に久しぶりに会い中学時代の話をするととても懐かしく、ふと今まで中学生だったように思った。中学の友人は、いつまでも大切にしていきたい。
 私は、これからも小浜中学校を卒業したことを誇りに思い、これからの小浜中の発展、活躍を願って
 『がんばれ』とエールを送りたい。
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 誰でも中学校時代の思い出が一番残っているんですね。卒業生の方々のエールに、小浜中一丸となってこれかも応えていきたいと思います。

「あのころの思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   あのころの思い出

 私は中学校時代の思い出は少なく、むしろ悪い思い出の方が沢山あるようです。
 その中の一つは、私は反町に住んでいますので学校に登校するのはいつもギリギリで、忘れ物をすると休み時間に学校を抜け出しては、走って家に戻った記憶があります。そうすると次の授業では、汗をダラダラ流しながら受けていますと、友達からお前は、家が近く忘れ物をしてもすぐ戻れるからなと羨ましがられたことが思い出されます。
 少ないよ思い出の中では、バスケット部に入ってまじめに練習し友達と協力し熱中できたことです。なかでも、安達管内少年少女バスケットボール大会で、幸運にも優秀選手に選ばれ受賞したことです。この時は、天にも昇る気持ちでした。
 私は、早く結婚したので、二児の父親ですが子供が中学校に入学する頃、今までの小浜中学校と変わらず、穏やかな良い環境でありますよう願いながら、伝統ある小浜中学校の益々のご発展とご活躍を期待します。
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 小浜中学校は、卒業生の方々の願い通り穏やかな良い環境にあります。これからもより良い環境づくりに努力して参りたいと思います。ただ、どんなことがあっても無断で学校を抜け出して家に戻ることはダメなことです!(笑顔)

「爽やかなあいさつに思う」(創立50周年記念誌より)

 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   爽やかなあいさつに思う

 私は、「挨拶」よりも、この「あいさつ」がすきです。挨拶と書くとどこか堅苦しくて、儀礼的に感じられあまり好きではありません。
 あいさつは、より自然で気持ちのいい感じがします。その気持ちのいいあいさつをしてくれる中学生がいます。
 毎朝私が、仕事に行くときにすれ違う女の子ですがいつも『おはようございます』とあいさつをしてくれます。
 このたった一言のあいさつなのですが、その一言がとてもすがすがしく、朝のボーとした頭に爽やかな風が吹いたように心地よく、その日一日が気持ちよく過ごせるような気分にさせてくれます。
 これが、本当のあいさつなのだろうと、いつも感心させられます。「人に会ったら挨拶をしなさい」と教えられてするのではなく、誰かと会ったときに自然と口にするのが本来のあいさつなのではないのかと思うのです。
 このたった一言のあいさつですが、なかなか言えないというのは寂しいことだと思います。
 このあいさつのできる小浜の子供を大切にし、その輪を大きく広めていきたい。
 それには、私たち同窓生が、いや大人たちが手本となり、そうした環境をつくって上げなくてはいけないと思うのです。、
 私たちも、小浜の子供だったのですから。
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 あいさつは、コミュニケーションの基本です。小浜中学校では、毎朝の「あいさつ運動」が伝統として継承されています。

「少しは大人に・・・」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   少しは大人に・・・

 平成5年3月12日(金)小浜中学校体育館。
 その日は大変穏やかな暖かい1日になりました。
 『卒業生入場!』
 ブラスバンドの演奏にあわせて整然と子供達が入場してきます。私の第2子長男も含まれています。
 1人1人の名前が呼ばれ登壇し、校長先生より卒業証書が渡されています。
 「頭に浮かびます。」
 私の恩師佐久間先生も今日この頃・・・
 学年主任と聞いておりましたので名前は呼ばないでしょうが、子供達1人1人の顔と思い出を確認しているのでは・・・?。又、佐久間先生にとっては定年という人生の区切りでもある、この年の卒業式は感慨深いものがあるのでは・・・と。
 卒業式も感動のうちに終了し在校生、父兄が校門に並び見送りです。「クライマックス」です。
 すがすがしい顔、底抜けに明るい顔、照れくさい顔、涙ぐんでる顔、大泣き顔・・・顔・・・顔、私から見れば満足感があり、どの目も美しく光っていました。小浜中での思い出を心に刻み、ひとつの糧として1歩1歩進んでほしいものだと願いながら「頑張れよ」「おめでとう」の声をかけました。
 25年前の自分の姿を浮かべながら・・・。
 人生の1番多感な時に佐久間先生に出会いました。生涯1教師、生徒とのふれあいが大事、一見頑固で要領が悪いが納得する人生を・・・。「虎死して皮残し、人死して・・・」のことわざがありますが『精一杯の人生』を教えられました。
 毎日が仕事が忙しく、貴重な1日でした。我が子を含めた子供達の成長の早さを感じました。
 『子供達と先生方』『佐久間先生』に乾盃!
 『浜中益々発展にバンザイ』
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 今年度の卒業生は40名で、今までの卒業生は計7,894名となります。小浜中学校の歴史と伝統を感じます。

「中学校当時の思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   中学校当時の思い出

 私が小浜中学校を卒業したのは、戦後のベビーブームの中に生まれた1人で、1クラス45人位ずつで各学年とも5クラス、生徒総数も7百人近く在学していたと思います。
 当時の面影を残す校舎は、今では地蔵様の休憩所に使われている建物だけで、あとは近代的な内外とも立派な校舎に変わりました。
 校庭も今より狭く、各クラブで一斉に使う時などは、テニスやバレーコートに野球部のボールが時々入り込んで中断することがたびたびありましたが、大きなケガもなく仲良く使っていました。
 当時の先生方は、個性が強く懐かしい思い出の先生がたくさんおりました。スポーツに熱心なファイト一杯の近藤先生、いつも口癖の「努力と経験」を強調して楽しい授業の数学の斎藤先生、体は小さいが大きい声で歌っていた音楽の君子先生、その他の先生も特徴のある個性豊かな方々ばかりでした。
 現在の子供は、本当に幸福な時代に生まれたと思います。しかし、今も昔もその時代時代に学び受けたことはそう変わりないのではないかと思います。小浜中出身者としての誇りをもち、子供のころに学んだことの思い出の数々、それらを生涯の心の支えとして、大いに活躍されることを願います。
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 時代がどんなに変わろうとも、命を大切にすることや相手を思いやることなど、不易なことはたくさんあります。これからも大切な不易なことは継承していきたいと思います。

「40年前に戻って」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   40年前に戻って

 創立50周年を迎えるにあたり、40年前に戻ってみようと思います。
 昭和32年の春、中学1年生になり毎日を楽しく過ごしたように思われます。
 学校行事で、スポーツ関係ですとクラス対抗のソフトボール大会があり、各クラスとも昼休みの時間は、校庭でソフトの練習をしていました。大会のルールで、上級生との対抗には、ハンディがあり私達は優勝候補の3年生と決勝戦をやり、ハンディのおかげで優勝したことが思い出されます。
 校内マラソン大会では、上級生にはかないませんがそれでも我がクラスの橋本君は、2年生や3年生にまじって上位入賞し皆で喜びあいました。
 また、運動会の仮装行列では、全員で闘牛士をやったことや校内合唱コンクールでは、クラス毎にクラスの歌を作詞作曲して発表したことなど懐かしく思い出されます。
 校内一斉テストでは、毎回50番まで総合点数と氏名が各学年の廊下に張り出されましたが2年か3年生になった時、総合点と順位だけで氏名の発表はなくなり話題もややうすれてきました。
 フキ取りでは、何時でもクラスの本間さんが、リヤカーに積み運んでくるのでクラスの仲間は、どうしてこんなに取れるのか不思議でした。
 当時、フキやイナゴ取りの収益は、部活動の運営費になるので各部が予算を出していかに多く獲得するか代表者によって、獲得合戦がなされました。こうした、奉仕作業を勉強しているより好きな仲間もおりました。
 2年生の時、担任の佐藤先生が、校舎裏のゴミ捨て場をどうにかしようと提案され皆で土を運んで畑をつくり、サツモ芋の苗を持ち寄って植え収穫した芋を皆で食べたり、小麦をつくりそれをパンと交換したことなど昨日のように次から次へと思い出され、すっかり中学校時代に戻ってしまいました。
 楽しい思い出がいっぱいの我が母校、小浜中学校が今後も、後輩達がよい学舎として発展し前進することを願っております。
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 先輩方は、今では考えられないような大変な苦労と努力をしてきたのですね。

「野球と蕗とりの思い出」(創立50周年記念誌より)

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 学校に保管されている創立50周年記念誌には、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 同窓会代議員の書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   野球と蕗とりの思い出

 小浜中の野球と言えば、佐々木先生を、当時校長先生であった鈴木先生が惚れこんで野球部の顧問として安達商より迎えて3年目で私達は、東達大会優勝、郡大会優勝、県北大会3位という成績を収めることができた。
 当時を振り返ると県北大会は信夫ヶ丘球場で開催され私は、レフト前とライト前に2安打した記憶があり、あの有名な広い運動場で試合をしたことが、今でも信じられない。
 夏休みは学校で合宿が行われ、ドンブリ飯でおかずもなく食べたことやある時は、雨降りの大会で、本多君が目の上にデットボールを受け大きな青たんこぶをつくり、目がかすんで見えなくても最後までがんばった姿は今でも忘れることができない。野球を通しても、又人生も同じだと思うが、最後までがんばる姿が人間として最も美しいと感じたことか。
 毎日の練習も厳しく佐々木先生に「お前は足が遅いからグラウンドをもう1周回ってこい」等と言われたことも思い出される。
 又、もう一つの思い出は、学校行事の1つであった蕗とりの思い出である。父の生まれた家に泊まりがけで蕗とりに行き、自分で取った蕗を何回も休み休み運んだ事。自分でも驚いているが小浜中の町内の生徒の中で1番量を取ったことである。あの苦しい経験や情熱を燃やした頃を思う時、何事においても努力しなければとつくづく思う。
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 「努力は裏切らない」という言葉を思い出しました。努力が人を成長させるのですね。
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学校行事
4/2 着任、職員会議
4/5 式場作成
4/6 着任式・始業式・入学式
PTA行事
4/6 新入生保護者会、PTA役員会・引継会
その他
3/31 学年末休業日
4/1 学年始休業日
4/2 学年始休業日
4/3 学年始休業日
4/4 学年始休業日
4/5 学年始休業日(最終日)
4/6 春の交通安全運動

学校だより「おばま」

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