最新更新日:2022/09/13
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「クラブ活動の思い出」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   クラブ活動の思い出

 園芸クラブの思い出、それは学校の花壇に花を植えたり、木をせん定したり、草を刈ったりしたこと、ミニ庭園を造ったりしたことなどです。
 最初は全然やる気がなかったのです。
 しかし、やっている内に、学校は次第にきれいになっていくし、学校を卒業した後、振り返ってみて良い思い出ができる、やってみてそれほどおもしろくはないが、終わってやった所を見ると気持ちがいいのです。
 学校祭の時、園芸クラブでは、ミニ庭園を造ることになったので、山に行って材料をとってきて、2人で造った。難しくて、全然やる気がなかった。
 先生が来られて、石をよさそうな所に飾ってくれたので、後はだいたいできるようになった。
 最後の仕上げに先生が、橋などミニ庭園にふさわしい飾り物を持って来て、それを飾ってどうにかミニ庭園ができた。その時は、とてもうれしかった。
 この時の思い出と、今までやってきた思い出を思うと、園芸クラブに入ってとても良かったと思う。
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「修学旅行の思い出」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   修学旅行の思い出

 今、ここに3年間を振り返って、1番先に頭に浮かぶのは、やはり修学旅行である。
 海から遠い所に育ったため、海は珍しい。どこまでもどこまでも続く、大海原を見た時には、自分の心までも大きくなったような気がした。
 その夜は、三浦ケープシャトウに宿をとった。そして、ベランダに立って浜辺の風景を眺めながら感じた。それは、筆では書き表すことができないほど、素晴らしかった。
 また、東京にて、第一に驚いたのは、高層ビルが建ち並んでいることと、銀座のネオンのきれいなこと、に心が奪われていました。いろいろなことが、次々と思い出されてきます。
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「あすに向かって」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   あすに向かって

 いつまでたっても永久に訪れることのないあした。
 二度と帰ってこない今。
 それでも一生懸命生きる人々
 わたしは15年間、これをくり返した。
 同じことを・・・何度も、何度もそこから数えきれないことを知っただろう。
 歩き方から2次方程式に至るまで。
 幼時走り行く道つくしんぼ

  入学したばかりのある朝のこと「あいうえお」と書いたノートを片手にうさぎのようにはねて行くと、道ばたには春の日ざしを浴びたつくしんぼが、頭に土をくっつけたままあたりを見まわしていた。一生懸命背のびして、まるで今のわたしのように。

 暗い闇ひときわはえる冬の星

 これからの世界、何が起こるかわからない。ただ、わかるのは、夜空の星のような無限の世界が待ち受けていることだけ・・・。
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「部活動の思い出」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   部活動の思い出

 この文書を書くに当たって、一番印象に残ったこと・・・それは部活動の思い出。ぼくの所属していた部は、バスケット部で、1年になってから、すぐ入部して基礎の練習からやらされた。
 初めは、苦しくて何度もやめようかと思った。しかし、歯を食いしばって頑張ってきた。この3年間悲しいこと、うれしいこと、つらいこと、おもしろかったこと、いろいろ思い浮かんでくる。
 2年の時、新人戦を前にして、部員全員がろくに練習もしないで試合に挑んだこと。その結果、岩代地区内で4校出場したうち、惜しくも決勝で針道中に1点差で負けてしまった。新人戦の前にまじめに練習していたら優勝していたと、つくづく思った。その頃は、チームワークもあまりなかった。また、ぼくは、上がってしまって実力を発揮することができなかった。しかし、その翌年の6月26日の安達地区総合体育大会において、13校出場したうち、第4位という成績をあげた。しかし、第3位までしか県北大会に出場できないため、悔しくてチームの2、3人は泣いた。
 忘れていたが、チームの人数は3年生だけで8人いた。みんな、おもしろく、あばれ友達で練習の時など、よくふざけて練習したものだった。このことは、一生忘れないことだろう。
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「部活動を通して」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   部活動を通して

 昨年12月7日小浜中学校にブラスバンド部が結成された。
 ぼくはこの部に入部して以来1年の月日が過ぎました。
 初めのころは未熟な演奏でしたが、3月14日には蛍の光で卒業生を送り、4月22日には岩代町体育館の落成式で立派な演奏ぶりを発揮した。
 また、9月の音楽コンクールに出場などという話も進んだが、練習不足のためコンクールには出場できませんでしたが、二本松市民会館で行われた郡の音楽祭に出場した。この時の曲は3曲だったが初めての演奏経験なので、たいへん上がってしまったことが印象に残っている。
 また12月1日に行われた学校祭には夏休み練習した「吹奏楽のための寓話」他数曲を披露した。
 これで3年生は短い間でしたが、2年生とバトンタッチをした。
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「進路入社試験」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   進路入社試験

 先日、渡された進路希望調査用紙で誰もが悩んでいる様子。こんな薄っぺらな紙だけで僕の進路は決まってしまうのだろうか・・・と不安な気になった。僕の夢は、電気の仕事をしてみたかったけれど現実は厳しい。そして11月僕も真剣に進路を決めなくてはならない。それでいろいろ考えた結果、精機会社に決めた。バイパスを走る車の中から大官工場の下請けの工場を見つけた時の感激はうれしかった。面接試験の為に工場に行った。工場内を案内していただきとても親切な人達だった。面接試験で自分の言った言葉がこれからの道なんだなあと考えながら、合格の通知が来るのを待っていた。
 そして、4日後に合格の通知が来た。家の人達には、学校に上がるなら上がれと言うが小さい時から社会に出て、自分で働いて、お金を取りたかった。家の姉は言う。社会に行ったら、この言葉だけは思い出しなさいと。「怠け者は長い針も短い針もない時計である。」と言う。
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「友と心」(昭和48年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   友と心

 中学校の3年間は自分にとって生涯忘れる事のできない素晴らしい時だった。特に3年生の1年間は、充実し本当によかったと思う。自分も変わったものだと思う。早く言えば変身だ。何が変わったかと言うと『心』である。美を見いだせる心だ。いろんな体験をして、いろんな事を知った。それに、何でも言い合える友もできた。お互い力になってやれる、信用できる=友とは素晴らしいものである。自分はこの友をもったことを誇りと思い満足している。この1年間何も思い残す事はない。
 しかし、ただ一つ残念な事がある。それは、クラスが最後まで一つにまとまらなかった事だ。でも考えようでは、1番おもしろいクラスだったのかも知れない。みんなの心が一つにならなくて!『心』心とは何!?
 それは、何万何億あろうとも、一つになってこそ価値が、心の、人間の価値が発揮できるのだと思う。人間はいつになったら、それを一つにできるのか?今、我がクラスの心はおくれている。人間ならできるはずだ。
 心、それは人間なのだから。
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「編集後記」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集にある編集後記が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   編集後記

 かねてから計画通り12月初旬、「卒業記念文集作製」の仕事に入りました。この文集は義務教育課程を終えてゆく卒業生にとって最もよい記念となるものです。ですから、私たち編集委員40名は、この文集作りには、あらん限りの情熱をかけたつもりです。
 また、この「文集作成」にあたり、いろいろと学ぶところがありました。その中で特に感じたことは「信念」の偉大なることです。「文集にどのような内容のものを、どのような配置で載せるから、そして、これこれの過程を経て、いつまで完成する。」この場合、できるか、できないかではなくて、必ず成し遂げる、いや、成し遂げ得るという「信念」が私たち編集委員の活動の原動力となったことは確かです。編集委員は、みな必死でした。教室に居残り、今まで書いた原稿を持ち寄り、その中からの選択。そしてまた、新たに詩や短歌を作る。そして、それらの推敲・調整・そして配置・さらにカットのそう入というわけで、窓の外が暗くなるのも忘れて必死に頑張りました。この仕事を進める上で、今まで嬉しかったことは、学習の上で今まで余り目立たなかった人でも、「カット作り」などの面で、思いがけない特技を発揮してくれたことでした。
 制作についての苦労は、確かにありました。しかし、新しいものを自分たちの手で作り出すという喜びの方が、はるかに大きく、編集室となった教室からは、和やかな話し声や歓声、そして笑い声すらわき起こりました。みんなが仕事をしている教室の中は、ストーブの消えた後も、熱気でムンムンする程でした。若い情熱そのものでした。このようにして作られた文集は、何と重く、また充実していることでしょう。この文集は、私たちが、どんなに遠く離れようとも、私たち157名の心と心を堅く結んで、毎年大きな年輪となっていくことでしょう。
 最後に、お忙しい中、貴重な時間をさいて原稿を寄せてくださった校長先生、教頭先生、はじめ諸先生方ほんとうにありがとうございました。
 また、最後まで私たち編集委員の能力を信じ、信念と情熱をもってご指導くださいました3年の先生方、ほんとうにありがとうございました。3年生を代表して厚くお礼を申し上げます。
  昭和47年度・卒業文集編集委員長
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小浜中学校沿革史を掲載〜小浜中の歴史がわかります!

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 小浜中学校沿革史を掲載しました。小浜中の歴史がわかりますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
 詳細につきましては、トップページ右側の<配布文書一覧>の【同窓会関係】をご覧ください。

◇小浜中学校校歌制定の由来◇〜校歌には先人の熱い思いが込められています!

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 校長室に、上の写真のように◇小浜中学校校歌制定の由来◇が記された額が掲げてあります。記された文章をよく読むと、校歌制定に相当な努力と苦労があったことが想像されます。校歌には先人の熱いが込められています。
 掲額された文章は次のようになっています。(原文そのまま)
 先人の熱い思いを感じ取っていただければ幸いです。
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    ◇小浜中学校校歌制定の由来◇

 小浜中学校は、昭和22年5月1日に創立された。
 その後、昭和29年にいたり、当時第2代校長であった鈴木三郎先生、代五代PTA会長であった松本善志智氏を中心として、校歌制定の機運がもりあがり、生徒会・PTAの努力と協力により、昭和30年2月5日に制定された。
 作詞は、当時鈴木三郎と昵懇の間柄にあった福島大学教授源後三郎(国語科担当)に直接依頼した。源後先生は、わざわざ来校され、学校周辺を視察、特に日渉園を歩かれ、歌詞の構想を練ったという。
 源後先生による詩の完成をまって、作曲を古関裕而先生に依頼することになるが、そのいきさつは次の通りである。
○当時、日本歌謡界のトップ・スターであった歌手伊藤久男氏は、本県安達郡本宮町の出身であり、小浜中PTA会長松本善志智とは従弟の関係にある。
○伊藤久男氏は、古関裕而先生の歌を数多く歌っており、両者の関係はきわめて親悠である。
―以上の理由から、PTA会長松本氏は、甥の伊藤衆三氏(本宮町大天狗酒造会社社長・伊藤久男氏を介して古関先生に作曲を依頼しようということになった。ところが、伊藤久男氏から「私よりも、もっと古関先生に近い人がいる。その人を通してお願いしたらどうか。」と云うアドバイスがあった。その人とは伊藤五郎氏(先述の伊藤衆三氏の弟・東京在住・医師)の婦人で、当時NHK混声合唱団の団員であった。松本善志智氏は、伊藤五郎氏夫妻の紹介を得て、古関先生とのつながりができ、正式に作曲を依頼する運びになった。完成された曲は、鈴木三郎先生のたっての要望で、荘重で格調高く他にその比をみないものであった。
 右の写真(コピー)は、伊藤五郎氏の案内で、鈴木三郎校長夫妻、松本会長が古関先生宅を訪問し、作曲を依頼したときのものである。(月日不詳)
因みに、謝礼は源後先生に1万円、古関先生に5万円を差しあげた。この基金は、生徒会あげていなご取りに取りくみ、その収益金があてられた。


    ◇作詞者・作曲者のプロイール◇

源後三郎先生 明治40年10月25日生まれ、安積郡富久山町(現在郡山市富久山町)に生まれる。検定試験で教員の資格をとり、小学校の先生―女学校の先生(会津女学校)―師範学校の先生―福島大学教育学部教授となる。詩に長じ、県内各地の校歌の作詞を手がけた。昭和46年福大在職中に逝去された。小浜中学校校歌を作詞したのは47歳のことである。

古関裕而先生 明治42年8月11日生まれ、福島市出身、昭和3年福島商業卒業後状況。作曲家山田耕作氏に師事音楽の勉強に励む。1949年英国作曲コンテストに応募して入選、これを機にめきめき頭角を現わし、日本トップの作曲家となる。現在日本作曲協会の理事。代表作(戦前)船頭可愛や(戦中)紺碧の空、暁に祈る、空の神兵、若鷲の歌、(戦後)鐘の鳴る丘、東京オリンピックマーチ(1964年)等 現在78歳東京世田ヶ谷在住、浜中校歌作曲当時は46歳であった。
(昭和63年3月・第10代校長中澤剛太郎読)
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 本校のこどもたちに、この校歌制定の由来について話をし、小浜中の伝統と誇りをしっかり受け止め継承させたいと思います。子どもたちの校歌を歌う気持ちや姿勢が変わると思います。
 なお、上記の◇小浜中学校校歌制定の由来◇については、トップ右側の<配布文書一覧>の【同窓会関係】にも掲載してあります。

小浜中学校校歌♪メロディ♪がお聴きいただけます♪

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 小浜中学校校歌♪メロディ♪が、ホームページでお聴きいただけます♪
 トップ右側にある<配布文書一覧>の【同窓会関係】の中の『♪小浜中学校校歌メロディ♪』をクリックいただきますと、♪メロディ♪が流れます♪
 また、同時に◇小浜中学校校歌◇も掲載しましたので、校歌の歌詞をご覧いただきながらメロディ♪を聴いていただければと思います。

「中学校生活」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   中学校生活

 「中学校生活」、私はいろいろなことを学んできた。この3年間というものは、とても短く感じられた。
 もしも「楽しかったことを一つだけ言ってください。」と質問されたとしたら、何と答えてよいのか分からない。愉快な友だち、やさしい友だちに囲まれて、すべてが楽しかった。時には悲しいこともあったが、いつも友達が私を助けてくれた。友達が悩んでいれば、私も友達と一緒にいろいろと考えた。
 ”友達は一番大切なもの”私はそう思い、友情を大切にしてきた。
 今、卒業を前にして、友達の顔を見ると一人一人に対して一つ一つ思い出が懐かしくよみがえってくる。
 「中学校生活」、この5字の中に、懐かしい思い出が沢山含まれている。進学する友達、就職する友達、それぞれ進路は違っても、私はこの思い出をいつまでも大切に心の中に残しておきたい。
  THE★END
 ”さようなら”は
 ◇また逢いましょう◇
  という言葉の代名詞
 義務の重荷から私達を
 解き放すことのできるのは
 心にやましいところのない
 実行だけである
     ゲーテ
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「ぼくの信念」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   ぼくの信念

 大人によく、「勉強は誰のためにするのか。」と聞かれたことがあった。ぼくは、「自分のためにやるのだ。」といつも通り一遍のことしか言えなかった。しかし、この言葉の中には重大な要素が含まれていることをきみは知っているか。ぼくは、あまりよく知らない。けれども、少しは知っていると思う。それは、「自分のためにやる。」ということは、人生を通してみると、よい学校に入り、よい会社でよい月給をもらい、よい退職金をもらうためなのだ。それではあまりに、外面的な様子しか捉えていない。本当の中身は、勉強によって最後まで頑張り通す、やり通すといった根性が養われるのではないか。と、ぼくは思う。
 その根性を、ぼくは、中学3年間で、百くらいは、身につけたと思う。それを土台にして百の根性を作り上げていかなければならない。
 ぼくの信念には、まだまだ考えが足りないと思うが、人生長いのだから、ゆっくり考えていこうと思う。しかし、これだけは本当のことなのだ。最後までやり通す、頑張り通せば、どんな事にも成功するのだ。絶対そうだ。そうでなければならないのだ。
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「これでいいのか」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   これでいいのか

 「百姓ではもうやっていけない」
 よく耳にする。嫌なことばだ。
 日本の国に、しかも農業国といわれた日本の国に、もし米を作る人がいなくなったら―。不安な気持ちが僕の心をゆさぶる。
 僕も長男
 「何を迷う。米作りをやったらいいじゃないか。」
 僕の心のどこかでつぶやく。
 すぐ、そのあとから冬期のあのみじめな出かせぎの肉親の顔が僕の心を責める。
 いったい僕は、どうしたよいのだ。
 悩みの末に打ち立てた僕の進路の道は、「米作り」「出かせぎ」から逃れた工業の道。
 何かすっきりしない気持ち。
 これでいいのか。
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「私の部落」(昭和47年度卒業文集より)

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 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   私の部落

 私の住んでいる四本松は、岩代町と東和町の境にある小さな部落です。私の家の前を流れる川は、口太川と言って、その川が岩代町と東和町とを、区別する境界線の役目をしています。東和町が近いせいか、私たちの部落の人たちは、買物をするにも二本松へと、バスに乗る人が多くなっています。そのためか、小浜とを結ぶバスには、ほとんど乗客がありません。今年、この小さな部落の城跡に、昔の物と見られる、さらに燃え残りの柱などが、発掘されました。私は、歴史上から見たこの部落の過去を知り、これは、喜ばしいことだと思いました。家の人の言うことには、この発掘物は、戦国時代の物だと言うことです。が、はっきりとしたことは、私の耳に入らないままでした。城跡といっても今は、桑畑です。私は、この桑畑が非常に残念です。なぜ部落の人たちは、城跡を大事にしてくれなかったのだろうか。私は、いずれこの土地を「ふるさと」と呼ぶものです。その部落の象徴とすべき城跡を、大切に保護し続けてほしいと、願っています。
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「わが郷土」(昭和47年度卒業文集より)

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 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   わが郷土

 私は福島県安達郡岩代町の中にある「下折長」という所を紹介しましょう。
 この下折長は昔、長折だけであったが、明治の初め頃、上折長と下折長に分かれたそうです。ここは農業を中心とした、純農業地帯で、田が少なかったので養蚕を主とし、絹糸をとり、それを打ったりし、炭をたき、一部では紙の原料となる、こうずの木を煮て皮をむき、それを一里半もある上川崎に背負っていって、売ってきたこともあったそうです。
 しかし、今は兼業農家が大部分をしめるようになり、夏には養蚕やたばこの他に、キュウリを栽培する家も増えてきて、少しずつではあるが、この下折長も、経済的に困らなくなってきている。また下折長付近には大正12年頃、発電所ができ、早くから電気が通るようになった。
 ランプから電気になったときの喜びを、祖母はよく私たちに、語って聞かせてくれる。こうして今日のように発展した反面には、すたれた慣習などがある。下折長にはずっと昔安土桃山時代頃から諏訪神社があり、その祭礼として三匹獅子が踊り、横笛・太鼓などの楽器で演奏されるもので、その家の長男のみが踊ることができるものである。だが、その祭りの日は、初めは旧の7月27日になった。昔は年に2回も祭りがあったそうだ。そしてどの部落でも獅子を出し全部で、5組も出そろい、豊年を祝い、部落の悪払いをし、客を呼んで、にぎやかに過ごしたそうだ。が、現在では2組ほどしか出なくなった。残りの2組が出なくなったのは、人数が少なくなりあとを継ぐ人がいなくなってしまったからだそうだ。
 私は本当に、残念な話だと思う。と同時に、私たちの世代で、なくすことなく、今後いつまでも残しておきたいと、強く願っている。
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「故郷」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   故郷

 山と山の間に小さな町がある
 そこには一本の道がある
 それは細く長い道
 そのそばには赤い屋根
 青い屋根の家々がある
 そして
 空は澄み渡り
 山では鳥がさえずる
 『春』になると
 野の草花が咲き
 香りをまき散らす
 『夏』には
 うちわを持ってホタル取りに
 歌を歌いながら行く
 『秋』には
 山が色つき葉が落ちる
 さびしさと悲しさに満ちる
 『冬』になると
 裸だった木々が
 白い雪の花を咲かせ
 一面を銀色の世界へともなっていく
 たくわんのにおい
 草のすっぱいにおい
 くだものの甘い香りが
 漂っている所
 畳のにおい
 土のにおい
 木のにおいが
 いっぱいの所が故郷
 わたしの故郷
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「卒業するに当たって」(昭和47年度卒業文集より)

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   卒業するに当たって

 今、私は義務教育9ヶ年、中学校生活3ヶ年、という課程を修了するところです。私は、この長いようで短かった学校生活を振り返り、いったいこの期間に私は何を学び、そして何を学び得たかという疑惑の目を持つようになりました。この問いに対し、答えが分かりません。いや、分からないのが当然だと思っています。この問いの答えはこれから先、数年後、何十年後かの、自分の行動や生活によって知ることができるし、年月が過ぎ去る毎に、この問いの答えに近づき、そして、この答えがはっきりとした姿、形になっていくのだと確信しています。
 近頃、私の耳には「卒業」という言葉がやけに多く聞かれます。私は興味心にもかられ、この意味を辞典を持ち出し調べたら、次のように書かれていました。(学校の教育などの課程を終えること)私はこの終えるという言葉に疑問を感じています。私の考えはおよそ次のようなものです。「卒業」とは、終了することではなく、これから先の新しい世界への旅立ち、出発点になるのではないだろうかという考えです。
 そして今、私たちは、いたずらや何か失敗を起こしては、怒られまた、注意をされたりして、よい助言をくださった先生や、共に学び、共に遊んだよき友、あの古き良き校舎に私たちは、さようならを告げようとしている。この3年間中学校で学んだいろいろなことを土台として、これからの新しい社会に進んで行こうとしている、私たち。たとえ、一人一人の道は違っていても、ひな鳥が初めて大空へ羽ばたく時、翼を一生懸命動かすように、今、私たちは、小さい一歩ではあるが、後には大きな一歩になるであろう第一歩を、大きく、そして力強く歩もうとしている。私たちが悩み苦しんでいる時、励まし元気づけてくれた、両親や先生たち。どうにか私たちは、実社会の出発点にたどり着いたようです。今、卒業を間近に控え、私たちは、希望に満ちあふれています。先生、どうかこれからも、私たちを見守っていてください。
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「修学旅行」(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   修学旅行

 いよいよ待ちに待った修学旅行。いつになく家を出るときから、そわそわして落ち着かなかった。
 学校発7時、郡山で特急ひばり2号に乗った。中からのながめは私の地方のような山村から開けた都市へと変わっていった。
 11時40分、上野に着く。上野付近だけでも福島とは違い、高層ビル、そして多くの人、あた限りなく続く車の行列から、ここが東京なんだという実感がわいてきた。
 最初に見学したのは、羽田空港である。ゴオーという激しい音が聞こえた。空港内には大型ジェット機とかジャンボジェット機など大きな飛行機があった。ここですまして記念写真を撮る。
 5時、三浦ケープシャトウに着く。1泊目の宿である。嬉しさの余り友だちと夜中まで騒いだ。
 2日目、朝食の前に海岸を散歩した。朝のさわやかな潮風が肌にしみて気持ちがよかった。
 慌ただしい朝食を済ませ、バスは宿をあとにして鎌倉へと出発した。
 鎌倉の大仏の大きさは日本第2で、慈悲深い顔容のバランスのよさで知られているという。
 次に見学したのは白糸の滝である。絶壁を数千条の銀糸が落ちてくるような滝水であった。そして岩石ででこぼこしているので、転びそうになったり、滝水がしぶきををあげ、体に押しかかってくるようだった。
 ここで昼食をしていると、数人の先輩が私たちにあいさつに来てくれた。先輩の紹介や話をしているうちに出発の時間が来てしまったので、別れを惜しみながらも、白糸の滝をあとにして富士スバルランドに入っていった。入るにつれて両端が赤松の並木が続き、その間にはつつじなどの高山植物が咲き乱れていた。3合目辺りになると気温が下がり、窓から入ってくる風も冷たくなった。4合目になると果てしなく広い雲海がひらけた。遠くには、雲海を望むように日本アルプスが見えた。この辺りの景色だけでも「わぁ、きれい」と私たちは目を見張った。
 間もなく5合目に着いた。「すごい」の一声だった。雪解けした所が紺色に、雪が残っている所は白というように紺と白で形取られた鮮やかな富士山が目の前に見られた。この雄大な日本一の山に私たちは今登っているんだという喜びに、胸がいっぱいだった。
 みやげ売り場では、空気の缶詰など珍しい物がいっぱいだった。
 私たちは、まだ富士山の素晴らしさを胸に、スバルラインをハイランドホテルへと下った。
 宿に着くと直ぐ、遊園地で遊んだ。ジェットコースターやスリラー館に入ったが、話に聞いていたより恐くなく、むしろ面白かった。
 3日目、「早く起きて見てごらん」という声に、目を覚ました。富士山が見えるというのだ。窓に寄ると、昨日登った富士山が、雲一つない朝日の輝く中に、絵に描いたような素晴らしい姿を見せていた。何という素晴らしい富士だろう。
 朝食を済ませバスに乗る。いよいよ修学旅行も終わりに近づく。
 山中湖、東京タワーと見学を終えて、特急会津号に乗った。疲れが出たのか、特急の中でうとうとしてしまった。
 長かったようであっという間に過ぎてしまった3日間の旅・・・。その中でも一番印象的だった富士の山。この数々の素晴らしい思い出を私は一生忘れることができないでしょう。
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「わが郷土」(小浜町)(昭和47年度卒業文集より)

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 学校に保管されている卒業記念アルバムには、小浜中学校のいろいろな歴史や逸話が残されています。
 当時卒業記念アルバムの中の卒業文集である生徒が書いた文が目に止まりました。以下に原文の一部を抜粋して紹介します。
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   「わが郷土」(小浜町)

 昔から、小浜には人が住んでいたらしい。
 300年前のころの「上だけ」、今の成田の競石に、伊達輝宗が住んでいた。そして「下だけ」、今の小学校のあたりに、輝宗の子ども正宗が住んでいて、そのころの二本松城の畠山氏より力があったという。それから少したった明治20年頃、今の小浜町は、下長折村、上長折村、成田村、西勝田村、小浜村と5つの村にわかれていた。
 そして、明治30年頃、5つの村が、合併したという。そのころの産物というのは、木や養蚕が特にさかんであった。今はそれに加わってたばこやいろいろな産物が作られるようになった。
 また、公害問題などとさわがれている今、この小浜は、空気はいいし、公害や排気ガスなどがなく、環境にめぐまれている。これこそ都会の人々が求めている、ふるさとではなかろうか。それにともなって、この小浜を別荘の町にしたいと思っている。
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学校行事
5/1 心電図・貧血検査
5/2 避難訓練
その他
4/30 振替休日
5/1 学校安全の日、防火診断
5/3 憲法記念日
万人子守地蔵例大祭
5/4 みどりの日
万人子守地蔵例大祭
5/5 万人子守地蔵例大祭
こどもの日
部活動関係
5/2 部活休止

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